実家をとうとう解体する。
何年も徐々に不用品の整理をしてきたが、先日タンスの中から富山の薬箱が出てきた。
これは、60年ほど前、松本に住んでいたころ、定期的に「富山の薬売り」の人が、薬を入れておいた薬箱だ。縁側で薬を入れ替えていたのを、小学生の頃だったが見て覚えている。「トンプク」「熊の胆」など飲んだことがあった。
富山の薬売りは、松本から岐阜に引っ越して以来60年、お目にかかっていない。
あとがき:
「廣貫堂」とあったので、NETで調べてみたら、今も手広く営業している会社で、「よかった」。NETには見覚えのあるデザインの薬袋が載っていた。
先日、ラジオで、『手紙は相手から来た内容は手元にあるからいいが、相手に送った手紙は、手元にないから後になって何を書いたか忘れてしまう。ちなみにmailは、送信履歴を残すことができるからその点、いい。』
こう話していたのを聞いた。
まさにその通り。もう、50年以上も前に届いた手紙。押し入れにあった手紙を紐解いて懐かしく読んだが、その時なんと書いて送ったか、またなんと書いたときの返事だったのか、知りたくなる。でも今になっては勿論すっかり忘れてしまっている。かろうじて書き損じがあると少しは分かるときもあるが。。
今の若者は手紙を書くこともなく、mailやLINEなどでコミュニケーションしている。ただ、50年も履歴を残すことはないだろう。
誰もいない実家に帰ると50年前の自分に戻れる。
実家を出てから40年近くになるが自分の部屋はそのままになっている。部屋には昔の手紙も捨てずに紙袋に入っている。
50年ぶりにその手紙やハガキ、年賀状を読むと、すっかり忘れてしまっていたその時の自分が確かめられる。おかしなことに相手からの返事を読んで、自分が書いて出した内容がわかる。そう、自分が書いた手紙は手元にないし、そのとき何を書いたのかもすっかり忘れている。相手からの返事の内容で、それがわかるのもおもしろい。あぁそうだったのか、そんなことを書いて出したんだと。
高校生の時は受験のこと、大学になって当時の学生運動のことを書いたようだった。
高校時代に下宿していたので、親から仕送りの時の手紙が山のように残っている。体を気遣ったり、成績を心配していた。今はいない両親が、今になって読み返してみては偲ばれる。
実家に帰ると、いつもタイムスリップする。
でも、いつまでも古屋をそのままにしておけない。
実家に帰るとTimeslipする。
実家と言っても、もう10年以上誰もいない。
一応、電気、ガス、水道はくるようになっているので、帰っても泊まることはできる。
親が亡くなって10年以上経ち、そろそろ家の始末をしようと思案している。徐々にではあるが、遺品の整理をしていて、先日は布団を200Kg程処分した。古着もこちらで安く処分するため40L袋10個、持ち帰ってきた。食器棚にあった食器もだいぶ処分した。でも、まだ全体の半分程度。
さて、この前帰った時に、いつものように整理していたら、押し入れから埃まみれの郵便物が出てきた。私が高校、大学の時に来た手紙が袋いっぱいにあった。つい整理の手を止めて、読み始めてしまった。もう半世紀も前のもので、存在すら忘れてしまっていた。そこには、昔の懐かしい名前があった。男友達も女友達も。そんなに出し合っていたのかと今更ながら思った。下書きで残った便せんもあり、どんな文章を書いたのか気になったが、ほとんど読まずにそのまま置いて帰ってきた。今度行った時に読む楽しみにした。
誰もいない実家に帰ると、親の想い出とともに、そこで暮らした昔の自分を思い出す。しばし郷愁に浸ることができる。でも、いつまでもそんなことはしていられない。家も朽ちてきたし、そろそろ本格的に跡地をどうするか決めないと。売却か駐車場にするかかな。それにしても、遺品を片付けないと。それに自分の部屋には、結婚した時点のものがそのまま残っている。あぁー。
勉強中もラジオを聞いていた。もっとも「百万人の英語」とか旺文社の受験放送も聞いていたが。。また、日本向けの「北京放送」も聞いていた。
KBS。中学生の時は岐阜にいて、韓国から流れてくるラジオがよく入った。だがその時、そのラジオ番組が何語で話していて、どこの放送局かもわからなかった。ただ、KBSと言っていたのだけはよく覚えている。
夜10時か11時ころ眠りながらラジオをつけると、女性の何とも言えないささやきに似た声が聞こえてくる。「なんと美しい言葉だろう」と思った。子守唄を聞くように眠りについたものだ。
それから、何年か経って、KBSが韓国放送局で、話していたことばが韓国語だったことが分かった。
韓国語は美しいことばだと思う。だたあの北朝鮮のTVから流れる女性の激しい口調をイメージされたら困る。
東京にいると現地からのラジオがよく入らなく、今では全く聞いていない。
今でもやっているのかな。あの懐かしいラジオ番組を聞いてみたいものだ。
昨日、放送大学で「藁」の話がされていました。
藁は、言うまでもなく米の葉と茎のところを乾燥させたものですが、
昔から、先人はお米を作ったあとに残った藁を、有効に利用していた
とのこと。お米からとれたものということで大事に扱ったらしい。
「藁」は「木より高い草」と書いてあがめられていたそうです。
神事の飾りには藁が使われている。
都会では、藁を使ったものを全くと言って、お目にかかることは
ありませんが、まだ田舎ではいろいろ使われているようです。
私が小学生の頃は、藁を使ったものが結構周りにありました。
・むしろ まだビニールシートなどというものはなく、むしろを敷く
ことが多かった。もっとも、もっと高級なゴザもあったけど。
・藁なわ 田舎で藁をよって縄にしているのを見たことがある。
機械で作っていた。手のひらでよって縄にするのも
見たが、やってみて難しかった。
・ぞうり これは時代劇によく出てくるが、いまはないでしょう。
神事では履くのかな。
・長ぐつ 北国の子供が雪の中で履いている写真を見るが、まだ履いて
いるのだろうか。
・米俵 今も使っているのかな。
・わら半紙 小学校、中学校までは、わら半紙が普通に使われていた。
ガリ版刷りのテスト用紙に、たまに「消化不良」の藁のカスが
残っていたことがあった。
・かべ材 細かく刻んだ藁を土壁に入れいていたのを、見たことがある。
・ストロー 藁なのかわからないが、植物の茎のものがあった。
・麦わら帽子 米の藁ではないのかな。
・むろ 小学校時代信州では、初冬に庭先に藁で「むろ」を作って
冬場の漬物や食べ物を貯えていた。
改めて藁が生活に役立っていたころを思い出した。
白黒テレビのこと
今は、カラーTVが当たり前だが、私が最初にTVを見たのは勿論「白黒」。小学1年のころと思うが、そのときのことははっきり覚えている。ラジオ屋の店先だった。まだ夕飯前には、テストパターンを流していた。カラーを買ったのは高校のときだから、10年ほどお世話になった。カラー放送の走りのころは、カラー番組も少なく、新聞の番組欄には、カラー放送は「カラー」とマークしてあった。家にあった白黒TVは、16インチのやつで、チャンネルはダイヤル式。よく接触が悪くなって映らなくなり、接点復活剤を噴きかけたことがある。
7年前にカンボジアに行ったとき、開け広げた窓から部屋を覗くと白黒TVが活躍していた。何か昔に返った気がした。そんな白黒テレビは、日本ではもう見当たらない。
来年、テレビはデジタル放送に変わる。番組も全面的に横長の映像に変わるだろう。アナログTVもそのうち「昔あって今ないもの」になる。ブラウン管TVも。
ジャンル:懐かしい
DATE: 02/14/2008 18:29:08
-----
先日、朝日新聞に「路面電車」の話が載っていた。昔は、東京にも、そして地方の町にも路面電車は多かったが、今では、数えるほどになってしまった。残った路面電車は健在でがんばっているようだ。私も、岐阜、高知、熊本、松山、長崎でお世話になった。バスと違って行き先がわかりやすいので、知らないところに旅行して利用するには都合がいい。
ところで、50年近く昔、私が松本にいたころ、松本にも路面電車があった。松本駅から浅間温泉まで単線で走っていて、「市電」と言って親しまれていた。余談だが、私が東京から松本に移ってきたころ、路面電車を「とでん」と言って友達に笑われたことがあった。子どものころ絵本で覚えたのか、路面電車は「都電」というものだと思っていた。
この市電はちょうど私の家の前を走っていた。最寄の駅が離れていたのであまり利用はしなかったが、車掌が紐を引っ張って、チンチン鳴らしていたことは覚えている。こどもながら、道を電車が走っていてもゆっくり走るので危ないと思ったことはなかった。ただ、自転車で線路を横切るとき、タイヤを溝に取られないように気をつけていた。雪が、降ったときは線路がちょうどいい通路になっていた。
前と後ろには、網を張った“かご”のようなものがついていて(バンパーの役目をしていたのか、荷物棚だったのか)大きな荷物を載せて走っていたことがあった。
松南高校前には上り下りの電車の行き違いのポイントがあった。ここでどうして左右に電車が自動で分かれるのか不思議に思って線路のポイントの仕組みを調べたことがあった。
<こうして、書くうちにいろいろ思い出してきた>
路面電車の停留所は勿論無人だが、この市電の清水駅の手前から浅間温泉までは路面ではなく専用軌道になり、各駅にはちょっとしたホームがあった。中間点の横田駅は、電車区があって駅舎もあった。さらに先に行くと、県営球場があり、高校野球の大会があると乗って行った。反対側の女鳥羽川沿いは、春は桜の名所で花見に行ったような記憶がある。
終点の浅間温泉には、一度美鈴湖にスケートをしに行ったとき、そこまで乗ったことがあった。。。
私が松本に移り住んだ小学2年生のときから廃止の話は聞いていたが、松本を離れる小学6年まで市電は走っていた。私が高校生になって、久しぶりに松本に遊びに行ったとき、市電はなくなっていた。(1964年廃止)
松本電鉄・浅間線
-----
-----
COMMENT:
AUTHOR: phoenix
DATE: 02/15/2008 21:02:12
はまさんは長崎ですよね。昔、もう30年も前、平和公園やグラバー庭に行ったのは確か路面電車だったと思います。100円は安い。
-----
COMMENT:
AUTHOR: はま
DATE: 02/15/2008 09:27:57
長崎もいろんな地方から来た路面電車がはしってます。
料金は消費税導入前から100円です。
もうすぐバスと共用のICカードが導入されるので、薬袋でパックした100円玉を両替で渡してくれるサービスがなくなっちゃうかも。
ランタンフェスティバル開催中にはいつも電飾で飾ったのが走るのですが今年は見てないなぁ。走ってないのかな。
-----
COMMENT:
AUTHOR: phoenix
DATE: 02/14/2008 21:11:01
朝日の記事も、広島の路面電車が大きく載っていました。広島には修学旅行で1度しか行ったことがなく、詳しくないのでまた行ってみたいですね。
-----
COMMENT:
AUTHOR: 本因坊兼定
DATE: 02/14/2008 19:09:33
広島が路面電車の宝庫です
大阪 京都の市電があります
広島に行きたくなりました。
-----
-----
中学は、岐阜の田舎町にいた。TVは松本と違って何局も放送していて番組も豊富だった。コマーシャルは多くが初めて知る名古屋の会社ので物珍しかった。学校から帰ってくる夕方、毎日同じ洋画を放送している番組を覚えている。「ニッサン洋画劇場」?。ニッサンは車でなく、石鹸の会社。
思い出すのは、休日の朝だったが、アメリカとの初の衛星中継で、ケネディーの暗殺事件が飛び込んできた。番組では、ザ・ピーナツが出ていた「ザ・ヒットパレード」。この番組からコニーフランシス、ヘレンシャピロ、リトルペギーマーチなどの外国の女性歌手を知った。夜遅くには、「夢で合いましょう」や、丸井太郎の「赤いダイヤ」、加藤剛の「人間の条件」なんて見ていた。「ピンクムードショー」と言うのも親にこっそり見たこともあった。「ローハイド」「ララミー牧場」はこのころだった。西部劇には前後の記憶が定かでないが、「アニーよ銃をとれ」「コルト45」「拳銃無宿」「ワイアットアープ」など好きで見ていた。
高校になると、下宿先で食事時と、勉強の合間に見た。「てなもんや三度笠」「シャボン玉ホリデー」そして、「逃亡者」「ベンケーシー」を思い出すがTVはあまり見なかった。1年の時に東京オリンピックがあり、このときは下宿先のTVで毎晩見た。
帰省の東京の家では、「早撃ちマック」「チロリン村とクルミの木」そのあとの「ひょこりひょうたん島」なんて毎日夕方やっていたが、見入っていた覚えはない。
総じて高校時代はあまりTVは見ていなく、ラジオをよく聞いていた。
大学時代は、TVは今までの反動のようによく見た。「コンバット」「ナポレオン・ソロ」「スパイ大作戦」を、青春ものでは「娘たちは今」松原恵子の「あいつと私」、ファミリーものでは「パパ大好き」を見た。
イベントでは、学生運動の激しかったころで、新宿駅の暴動(私もその中にいて、10時ころ家に帰ったら催涙ガスの漂う新宿駅がTVに映っていた)、3年のころは、人類初の月面着陸とウサギのように飛び歩く中継を、朝、出かけるせわしいときに見ていた記憶がある。
社会人になってからは、TV放送を毎週待ち遠しく思う番組は、少なくなっている。
-----
-----
TVを最初に見たのは半世紀もむかし、小学一年生の時。学校から帰る途中に電気屋さんがあって、その店先に道に向けてTVが置いてあり、それを珍しそうに見ていた記憶がある。まだTVなどふつうの家庭では持っていなく、夕食を終えると大人まで電気屋さんの部屋に上がって見たものだ。どんな番組を見ていたのかよく覚えていないが、一つ思い出すのは、たしか三国一郎の「何でもやりましょう」。バヤリースオレンジ提供だったか。
三鷹台の山崎電気店さん、ありがとうございました。
小学2年の時に、松本に引っ越したが、まだTV放送はやっていなかった。3年生くらいの時、美ヶ原にテレビ塔が立ち、松本にもNHKとSBCの2局の放送局が開局した。社宅住まいだったので、近くにある会社の事務所のTVを見ることができた。夕方ともなると大相撲放送を見、夕飯後は「月光仮面」、「風小僧」、「名犬ラッシー」などを、ちょっと遅くなって「日真名氏飛び出す」「事件記者」なんか見ていた記憶がある。社宅の子供たちがたくさん集まって見ていた。
皇太子(今の天皇)のご成婚のTV中継の時は、大人たちも来て一緒に見ていたのを覚えている。
小学校にTVが来たのは4年生頃だったか。通っていた清水小学校では「ベルマーク」を生徒たちがみんなで集めて景品として頂いた。観音扉のある箱に入れて大事に扱っていたが、画面が小さく後ろからはよく見えなかった。
自分の家にTVが来たのは、5年生?の時。週刊朝日の雑誌の裏にTVの広告があって、子供ながらにほしいと思っていた。富士電機の16インチのやつ。勿論白黒。映りが良くなくアンテナを動かしたりしたこともあった。TV放送のない3時頃などに、あの丸い形のテストパターの画像がよく映っていた。
家のTVで見ていた番組は、夕方の小柳徹の「ホームラン教室」、渡辺篤史、ジュディーオングの「おらァ三太だ」、夜の「私だけが知っている」「ダイヤル110番」。「日本の素顔」は親が見ていたな。テーマ音楽だけは覚えている。そして「スーパーマン」や「ポパイ」も思い出す。日曜日の朝は「ナショナルキッド」なんてやっていた。ただ、夏休みに東京から遊びに来た、いとこなどに、「あれ、この番組もう東京で見た」とか言われることがあった。松本は田舎だから放送も遅れるのかと思ったが悔しかった。6年生の時に朝、ローマオリンピックの放送をやっていた。生中継のはずがないので、録画を数時間遅れで流していたのだろう。
【続く】
-----
-----
少し前、鴨川沿いの京都・木屋町の風情について、そこに住み着いた外人がTVで紹介してくれていた。夏は、戸を開けはらい鴨川から吹く風を通すと心地よいと話していた。で、そこには網戸はない。虫が入ってくるでしょう?とレポーターが聞いていたが、虫が入ったらそれはそれで風情だと、答えていた。確かに木屋町の座敷に網戸があったら興が失せる。
昔は、窓や縁側に網戸はなかった。
私が小学生の頃に住んでいた松本の家は、よくあるような南側が廊下越しの縁側だった。夏は夕飯時でも戸を開けはらっていた。障子は閉めていたかもしれないが、虫はどこからともなく入ってきた。
一番最悪なのは、大きな蛾が飛び込んできた時。茶碗を持って逃げ回った覚えがある。親が捕まえていたが、何処か隅の方に飛んで行ってしまってそのまま放っておくこともあった。そういった時は、朝がた明るくなって探したものだが、なぜか見つかったためしがない。子供心にいつも不思議に思っていた。
今の子供は網戸のある生活で、ご飯時に虫が入ってくることはまず無い。それでもたまに小さな、ほんとに小さな蛾がいただけで、ぎゃあぎゃあ騒ぐ。「バカ言うな。お父さんが小さい時なんか、スズメ蛾と言って10センチもある蛾が飛んできたんだぞ。騒ぐな」と言っているが、実は自分も子供の頃はそうだったので、偉そうなことは言えない。
鴨川の風情とはだいぶ違っていた。
-----
DATE: 09/04/2006
-----
昔あって、今ないもの(あまり見当たらないもの)
自分なりにちょっと考えてみました。
・ハエ取り紙
・ハエ叩き
・だるまストーブ
・練炭
・木造校舎
・レコード盤
・レコード針
・白黒写真
・白黒テレビ
・セルロイドの筆入れ
・駄菓子屋
・めんこ
・ベーゴマ
・蚊帳
昔っていつのことかは、それぞれの人が昔と感じている頃でいいと思う。ちなみに、私は小中高の学生時代。
NHKラジオ 「新・話の泉」参考
-----
COMMENT:
AUTHOR: harumama
DATE: 10/03/2006 21:54:32
私も考えてみました。
やはり断然「ハリ」と「ツヤ」ですね(どん爆)。
・・・冗談はさておき。
ちょうど昨日ダンナと二人で
「そういえば“ボンナイフ”って今ないよね」
って話になったんですが、ご存知ですか?
なぜ“ボン”だったのか・・・。
駄菓子屋は今でも近所にあります。
今日の社会科見学はおやつ100円の制限があって
昨日娘がその店で10個ぐらいお菓子買ってました。
-----
COMMENT:
AUTHOR: phoenix
DATE: 10/03/2006 23:14:11
ボンナイフと呼んでいたか忘れましたが、鉛筆を削るのに女の子がよく使っていましたね。私は、そのころ珍しかった鉛筆削りを買ってもらったので、使った覚えがありません。
男は、肥後守を持っていて、木の枝を切ったりして遊んでいました。今の子供には考えられません。
駄菓子屋さん行ってみたいです。やっぱり薄暗いイメージですか。
-----
COMMENT:
AUTHOR: ちーず
DATE: 10/01/2006 22:38:01
ふむふむ。。
書いてある物すべてが分かる(笑)
昨年 訪れたトヨタ館で見た
懐かしい品々を思い出しました♪
我が家に現在あるのはハエ叩きくらいでしょうか(^-^)
-----
COMMENT:
AUTHOR: phoenix
DATE: 10/01/2006 20:16:27
こんばんは。
蝿取り紙に髪の毛が付いて困ったこともありました。
汲み取り式トイレ。そういえば、手洗い用に、水の入った入れ物を外に吊るして下の棒を上に押し上げると水が出てきて手を洗うもの(なんと呼ぶのでしょうか)ありましたよね。
-----
COMMENT:
AUTHOR: りょう
DATE: 10/01/2006 19:59:29
この中に今も健在のものもあるようですが・・・・・
でも、時代の流れを感じますね!
白黒なんて普通だったのに^^;
蝿とり紙が下がってましたよね(笑)
トイレも汲み取り式で。
何もかも便利になったようで実の所不便なこともありますし。
私は、30年代が懐かしい♪
-----
-----
下駄を履かなくなって久しい。
10年ほど前に、和服を着て初詣に行ったとき下駄を履いた覚えがあるが、それ以来履いていない。女性なら、今どき花火を見にゆかたを着て下駄で歩くかもしれませんが。
私が小学生の時にいた信州では、男の子は下駄はくつと同じくらいによく履いていた。学校へ行くときも、遊ぶときも。冬でも足袋をして下駄を履いた。下駄の歯がすり減って無くなるほど履いた。鼻緒が切れて、歩くのに苦労したこともあった。
下駄を履くと背が高くなったようで、楽しかった。からんころんと鳴らして歩くのもよかった。昔は舗装のない道が多く、雨上がりの水たまりのある道を歩くのにも都合がよかった。
下駄にはそんな思い出がある。確か実家にはまだ下駄が置いてある筈だ。
-----
-----
実家にあるSP盤を、先日弟が、MP3に変換してくれた。レコード針は運よく替えがあり、ほぼ完璧な音質で録音し変換できた。もっとも、レコード盤が傷んで、ザーザー音がするのは仕方がない。全部で34曲。もう真空式のステレオがいつ壊れてもかまわない。
レトロの趣が多少薄れたかもしれないが、これで現代のツールで自由に聴くことが出来る。
-----