毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本は戦後侵略されなかったという幻想

2019-08-12 23:52:16 | Weblog

  PHP新書の「有事法制」の、なぜ日本は侵略されなかったのか、という項目に、戦後日本が侵略されなかったのは平和憲法のおかげである、と言う人たちがいるが間違いで、日米安保があったからだ、と書いている。もちろん日本国憲法があったから、侵略されなかったなどと言うのはとんでもないこじつけである。しかし日米安保の下では侵略がなかったというのも幻想である。日本は竹島を韓国に奪われたのは明白な事実ではないか。時系列で整理してみよう。

日本国憲法が施行されたのが昭和22年である。そして韓国が李承晩ラインを引いて竹島を侵略したのは昭和27年1月のことである。日本国憲法が他国の侵略を防ぐのに何の効果もなかったのは明白である。都教組は竹島が歴史的に日本の領土であるという根拠はない、という資料を作ったのはこの矛盾を解決したかったからであろう。侵略されたのに、そういうことはかったことにしよう、と言う訳である。

 次に日米安保条約であるが、昭和26年9月署名し27年4月発効している。丁度この間に韓国の竹島侵略が行われている事になる。正確には日米安保は署名されてはいたが、発効はしていなかったから、当時は日米安保による侵略防衛義務はなかった、と言いうる。しかしこれは屁理屈である。日本の防衛力を解体して日米安保で日本防衛の意思を米国は公言していたのである。しかも当時の韓国は朝鮮戦争中であり、米国の保護国に等しい。韓国防衛の軍事力は大部分が米国に負っていた。

 米国が干渉すれば韓国は竹島から手を引いたのに敢えてしなかったのである。当時の日本外交が有効に米国に圧力をかけなかったこともあるが、何よりも竹島に関しては日本保護の意思を明確にしなかったのが根本的原因である。米国は北方領土でも竹島でも、日本と近隣諸国との領土問題に明確に意思を示さないことによって日本を牽制する意図があるとみられる節がある。尖閣諸島に対する米国の反応に見られるように、米国は一方的に日本にくみする態度は決して明確にはしない。従って日米安保がどこまで侵略を防止しているかは不明瞭である。その典型が竹島である。

 竹島侵略だけを例に挙げたが、北朝鮮に日本国民拉致や北方領土問題があるが、日米安保条約は何の役に立っていないばかりではない。それどころか、日本国憲法はこれらの解決の足枷にさえなっている。
 
 米軍が日本の軍事占領を行った事自体は戦争の結果として当然である。日本が英米蘭との戦争の経過で東南アジアの地域(国々ではない。もちろん英米蘭の領土の一部に過ぎなかった)を占領したのが当然であったのと同じである。しかし、占領は国際法を守り、純粋に軍事的に必要な範囲に限定されるべきである。米軍の占領による憲法改悪や皇室典範改悪などの日本の法律をいじるという国際法違反の行為は不当である。従ってこれらの行為は侵略である。日本は敗戦後米国に侵略を受けたのである。このことをわれわれ日本人は忘れるべきではない。

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農協異見

2019-08-12 11:54:30 | Weblog

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 現代日本は利権社会である。その典型が農協である。農協は、農地解放によって小規模自作農が増えたために、その農業指導を行うためにできた組織のはずである。たがら適切な化学肥料を選択して販売する、精米などをして買い上げる等々である。自作農となった小規模農家は、いわば個人経営で組織力が無いから、このような支援が必要なのである。

 町工場などの自営業とはどうちがうか。町工場は技術と経営力を持つ個人が自立したものである。農作業を行う能力があると言うだけで、農地解放によって経営能力も技術もあるものもないものも自動的に経営者になってしまったのである。そのなかから経営者になれる能力のあるものは少ないだろう。町工場だって経営者になれるものは少なく、大多数は工員として働くから、このことは農業従事者の資質が低いことを意味しない。

しかし農家の世帯主は、農業経営に向こうが向くまいが、農作業に向こうが向くまいが、農業経営と農作業に従事しなければならない。工場経営者は適性が無ければ倒産するし、工員も全く適さないものは止めて行くだろう。農地解放当時の農家には適性の選択、ということはなかったのである。私の父も専業農家をしていたが、農業機械の取り扱いが下手でよく事故を起こしていた。

 しかし戦前の農業と異なり、農地解放後の農家は徐々に経営が立ちいかなくなってきた。農業収入で生活できず、父も母も農閑期には近隣の建設業や工場でアルバイトをしていた。では戦後なぜこのような変化が現れたのか。私の体験的に分かるのは、現金収入の必要性である。教育が普及し、家電製品等が普及した。この結果現金の必要性が戦前に比べ飛躍的に増加した。相対的にはそれまでの農家は自給自足に等しかったのである。小作のうちで米を作り野菜を作り、それを消費していれば済んでいたに等しい。

私は高校に入るとき通学用自転車を買ってもらった。信じられないだろうが、中古だったのに、半額は現金ではなく、米と野菜をリヤカーに積んで自転車屋に持って行かされた体験がある。私の家は当時は既に没落していたとはいえ、田圃だけで2町歩以上ある、近所に比べ決して小規模農家ではなかったのである。現金収入の必要性が増えると生産ばかりではなく、販売のノウハウも必要となってくる。このようにして大規模組織化した農協が全国の小規模自作農を支援してきた。その功績は大である。絶大である、と言ってもいい。

 しかし問題はそれからである。小規模自作農は絶対的に効率が悪い。小規模農家が現金を獲得するには、米を高額で販売するのがもっとも簡単である。野菜や花などの方が効率がいいのだが、経営に工夫がいる。それに比べ昔と変わらず単純に米を作って農協に引き取ってもらえば経営的努力が必要ではない。コメの高い金額での政府買取制度もあつた。サラリーマンの収入が上がれば、それに匹敵した暮らしをするには米の価格を上げなければならない。しかし工業製品が大量生産によって、給料に比較して相対的な価格が低下させて大量販売によって収益を挙げることができるのに反して、経営規模が変化しない小規模農家の米は経営努力によって大量生産して安い価格で大量販売して利益を挙げることができる可能性が少ない。

 それどころか戦前は無きに等しかった農業機械の普及によって経費は上がるばかりである。たとえ狭いとは言え、手作業による田植えや稲刈りの大変さは並大抵ではない。テレビで子供たちの田植えの体験報道では楽しそうだが、ある程度の面積の田植えの作業の大変さは実際にやってみなければ分からない。だから田植え機が出れば飛びついて二度と手植えには戻れない。

 ところがこうした農業機械は年間数日しか使わない効率が悪いものである。農業機械はそれぞれ。耕運機、田植え機、稲刈り機、脱穀機と専用機ばかりを一軒の農家で数日間しか使わないものをすべてそろえなければならない。そればかりか、これらの機械は数年たつと壊れて更新しなければならない。べらぼうな出費である。

 だから農業機械等の経費と農家に必要な現金収入から算定される米の生産価格と市場で決まる実勢の販売価格との差が生じる。工業製品の多くは大量生産による価格低下があっても大量販売で利益を上げるか、付加価値を高めて利益を上げることができる。逆に言えばそうすることを工業経営者は求められている。本来は農業もそうなのである。ところが小規模農家の米の生産に関してはその余地が少なく、そのような経営努力をする能力のある者は少ない。これを解消するために考えられたのが、いわゆる逆ザヤの補てんである。

  しかし農家にはそのような事を実行する政治力はない。そこで登場するのが農協である。政党は政党で票が欲しいから、農協に農家の票のとりまとめを依頼して逆ザヤや各種の農業補助金の立法を実現する。こうして農政族政治家、農協、農家のトライアングルが出来上がった。政治家は農協に政治家でいられる保証を受けているのだし、農家は農協によってしか団結することはできないから、トライアングルで最も強いのは農協である。農協は農業以外にも金融や観光など業種を拡大して膨れ上がった。職員には農家出身の子弟を優先的に雇うから、農家は益々農協に依存する。

 大昔近所の農家の女子が高校を出て農協に就職した。ある夜その子が母親と共に来て、農協貯金の勧誘に来た。このようにして農家は農協に取りこまれて行ったのである。農協は正確には各地に分立しているから、全国ひとつの統一組織ではない。しかしこれは独占禁止法逃れの建前に過ぎない。全国農協中央会によって実質は全国統一組織である。巨大な財閥である。TPP反対などの農家がデモ行進をする際に指揮を取っていたのは農協中央会である。決して農家が自主的に行っているのではないことはもちろんである。 

 農協がTPPに反対したのは、農家のためではない。自立できない中小農家を擁護する事によって、農協の組織を守ろうと言うのである。現在自立して農業を行っている人たちの多くは農協に依存していないで経営努力をしている。自立できない中小兼業農家が減って、自立した大規模専業農家が増えると農協は破綻するのである。TPPによって農業部門の自由化が進むと、農協に依存した農家は保護しきれなくなる。小生がTPP参加に賛成するとすれば、農業の大規模や法人が農地を持てるようにするなどの改革をして、農業経営を効率的なものにする契機となる可能性からである。

このような農業経営者は農協の埒外である。だから農協はTPPに反対した。農協は農家を、農業を守ると言っているが、農協に頼る既存の小規模農家は既に破たんしている。小生の実家は父の代まで専業農家であった。兄はサラリーマンで、成人してから農機具に触ったこともない。農地の一部は荒れ果て一部は別の農家に貸して稲作をしている。残りは高速道路などに売ってしまった。荒れ地は減反奨励金を受け取っているのだろう。とすれば何も農業をしていないにも拘わらず、兼業農家ということになる。

 このような空疎な兼業農家が肥大した農協を支えている。もはや農協は、組織を守るために、こうした中小農家を食い物にしている。農業は農協に依存しない大規模農家か、工場生産方式の、研究開発営業販売などの各部門を持つ会社法人のいずれかにしか生きる道はない。体験は絶対ではない。しかし、専業農家に生まれ、子供の頃農業の手伝いをした小生は、体験からかく思うのである。


小林よしのりは漫画家であって、思想家ではない

2019-08-09 12:20:17 | Weblog

小林よしのりは漫画家であって、思想家ではない

 小林よしのりは漫画家であって、思想家ではない。小生は自明のことを言っているのに過ぎない。しかし、ご本人は「戦争論」や「天皇論」なる漫画を描いて、思想家気取りであるように思われる。漫画で思想を論ずることが、絶対に不可能である、とは言わない。しかし小林の書いている漫画は、芸術作品であって、思想論文ではない。悪くすればアジびらに等しいものすらある。自分の論敵を醜悪に描くことによって、どぎつく相手を罵るのに、等しいものすら珍しくないからである。

 芸術作品は、鑑賞者の五感を通して情感に訴えて自分の目的を達するものである。小林の漫画の場合、自分の主張を読者に伝えることが目的である。そのために、視覚に訴える漫画と言う手段によって、情感に訴えて主張を伝達する。思想論はこれと違い、多くは文字により論理を構成して、理性を通して主張を伝えるものである。手段が情感に訴えるのと、論理によって理性に訴えるのとの大きな違いがある。

 例えばある雑誌で、八木秀次氏が「特別永住制度」を「在日特権」のように間違った主張をしていると、言うのだが、ある事例を持ち出して強烈な漫画でインパクトを与えて、あたかも反論しているようなのだが、そこには理性に訴えるものはなく、脅迫的に読者に結論だけ押しつけているのだ。表現の強烈さによって、説得される読者もいるだろう。しかし、八木氏の主張を丹念に論破する姿勢はなく、一方的な決めつけだけである。

 二葉亭四迷が文学を志したきっかけは、ロシア文学が革命を成就するための爆裂弾のようなインパクトがあることに魅せられたのである。このことはロシアの革命文学と言う芸術によって、情感によって革命思想に取りつかれるロシア人が多いことを知ったためである。革命思想論のような論理で理性的に説得するよりも、遥かに効果があるものと知ったのである。このように、芸術は説得力はあるが、あくまでも理性によってではない。だから革命思想が正しいか否か、を論理的に検証をしない、という重大な欠陥がある。

 芸術に拠って説得された人々は、正しい理想にかぶれたのではないかも知れないのだ。小林のように芸術によって、擬似思想論を展開する手法には、このように重大な欠陥を有している。流石に非難されて最近では小林は、「論敵」を醜悪に描くことは減っているようだ。しかし、漫画表現を使って正邪を判定させようとする手法は相変わらずである。

 多くの論者は、女系天皇論などで小林を批判している。しかし、小林は芸術家としての漫画で、擬似思想を語っているのだから、論ずるに値しないのである。漫画で思想家を気取っているのは、大間違いである。最近は明治の壮士を扱って、派手に血を流すシーンを描いて悦にいっている。本人も壮士気取りなのであろう。思想家としては論ずる手段を持たない、取るに足らない人物である。

 しかし、二葉亭のように、芸術による爆裂弾に等しい効果は、むしろ下手な思想論より大きい。だからむしろ厄介である。これまで閲したところ、保守ないし右翼を気取っているが、小林には定見がなく、その時のカッコよさを狙っているにすぎないようである。その証拠に、既に初老の域に達した肥満した男性であるにも拘わらず、漫画に描かれる小林は、常に美青年なのである。

小生は嫌味を言っているのではない。これを論文によって文字で表すなら「私はハンサムな青年です」という間違ったことを書いていることになるからである。これは漫画が芸術であって思想論ではないから許されるのであって、思想論で、そのように書いたらその時点で信用を失う、虚偽記述なのである。結局小林よしのりには、分際を知れ、というのが、最も適した言葉である。付言するが、小林は漫画を伴わない論文の類も書いているらしいが、それは芸術としての文学に等しいものであって「論文」にはなっていないことは想像に難くない。


加害者の人権の嘘

2019-08-03 09:35:14 | Weblog

 いわゆる人権派弁護士が、冤罪や不当裁判などの加害者の人権を守れと主張する。それはそれで良い。だが一方でそういう人たちに限って、被害者の人権を守ることを主張しないのは、考えてみれば奇妙である。加害者以上に、加害者から人権を蹂躙されているのは被害者であり、そのため加害者の人権が制限されるのは当然だからである。

 これは、人権派弁護士の目的は実は人権を守ることにないことを証明している。彼らは古典的左翼である。意識しようとしまいと、彼らは隠れ共産主義者なのである。資本主義社会における共産主義者の取るべき態度とは何か。彼らの目的は資本主義を倒して共産主義社会を実現することである

 そのために革命を起こす必要がある。革命を起こすには多数の国民の支持が必要である。革命を起こすには多くの国民が現在の社会に著しい不満を持ち、革命による社会の激変しか社会の改善の方法はないと考えるに至る必要がある。共産主義者は革命を起こすには社会に対する不満をつのらせることが必要である。

 そのためには反権力でなければならない。つまり政府や警察等の権力者は悪いことをするものであるという意識を大衆に植え付ける必要がある。そこで加害者と被害者のどちらの側に立つべきか。被害者の側に立つのは検事や警察などの権力者の側である。これに対して警察などに取り調べられる被害者は権力に圧迫される、いわば反権力の立場である。

 ここに人権派弁護士、すなわち共産主義者は反権力として加害者の味方となる。そればかりではない。犯罪の被害者の多くは死亡している。つまり被害者の人権はもはや回復されることはない。つまり人権擁護をアピールするのに被害者は無用であり、生きて権力の側から投獄されて人権を制限されている者の方がアピールする。

 だから彼らは革命の雰囲気の醸成のために、犯罪者の人権擁護を叫ぶのである。裁判で検察の側が負ける事に意味があるのである。近年弁護士の倫理要綱が改正された。そこで消えた条文がある。真実の追究ということである。弁護士は真実を追究しなくても良いから、弁護を依頼した者に有利にすればよいということである。

 これは恐ろしいことである。弁護士が調査の結果、どう考えても犯罪を犯しているとしか判断されなくても、弁護士は真理を追究せずに、依頼者の有利になるように、はからえばよいということである。最近の裁判ではどう考えても犯人であるとしか考えられないような事件でも、無罪を主張したり心神喪失による無罪を主張する無理なケースが増えている。

 もちろんアメリカにはそのようなケースは多い。しかしアメリカの場合には単に金持ちから依頼されて、多額の弁護料をせしめるための銭ゲバ弁護士に過ぎない。しかし日本の弁護士の多くは、弁護料のために白を黒と主張するのではない。明らかに反権力の立場だけから無理な主張をしているのにすぎない。このような輩が増えることは平穏な日本社会にとって危険である。彼らの目的は人権擁護ではないどころか、かえって人権を蹂躙することにある。それが国民の不安、ひいては革命につながるからである。

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書評:日本人は何に躓いていたのか

2019-07-19 00:13:15 | Weblog

西尾幹二著・青春出版社

 外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の7分野に分けて、日本の問題点を記述したものである。外交、防衛をトップに置き、経済を最後に持っていったところに著者の意識がある。例によって興味あるコメントを取り上げる。

①外交:貴族制度に取り巻かれていない天皇制度というのは危ういのではないか(P45)というのは盲点であった。男系の減少や妃候補の不足といった問題は全てこれに関連しているからである。貴族制度などは封建思想の差別の極致などという、戦後米国によって流布された硬直した発想に囚われているのである。

 ギリシャ、ローマとヨーロッパの間には千年のアラブ人の支配されていて、地中海はアラブ世界で、ヨーロッパ人はギリシア人の末裔ではなく、ローマ人とゲルマン人は混血するが、文明としては千年の断絶がある(P64)と綺麗に整理してくれている。今日残るゲルマン神話は、アイスランドに残っていたアイスランド・サガを元にして、古代ゲルマン神話はこんなものだろうと後世作り上げたもの(P65)だそうである。

 こんな神話まででっちあげるのだから、ヨーロッパ人の歴史コンプレックスは相当なものである。ハリウッド映画では昔から、ギリシア、ローマの神話をテーマにしたものを多く作っているのはその最たるものである。現代ヨーロッパがギリシア、ローマの文明と断絶しているのは、現代の支那が漢字を発明し、四書五経の古典を書いたオリジナルの漢民族と完全に断絶しているのと同様である。だからこそ、中国4千年の歴史などと言う法螺を吹くのである。現代ヨーロッパは、蛮族ゲルマンが辺境から現れ、ヨーロッパ大陸を蹂躙した結果である。しかもゲルマンは自らの神話を奪われキリスト教徒に改造されてしまったという歴史の断絶を繰り返している。

②歴史:大局に於いて正しかった日本の大陸政策(P158)という項を設けているが、日米戦争はやらなければならなかったと言う持論と言い、小生が西尾氏を尊敬するゆえんである。

 「十六~十九世紀の世界は、明、清帝国、ムガール帝国、オスマントルコ帝国、ロシア帝国(ロマノフ王朝)の四つの帝国があって、それに先立つ時代に西洋は狭い、小さい遅れた地域でした(P160)」と言う。これらの帝国の内ロシア帝国以外の3つは物質的に恵まれ、技術も進み、ひとつひとつの帝国が一つの世界政府を成しているのだと言う。遅れたヨーロッパは貧しいから外に出て行き、植民地を獲得し本国に送金しなければならなかった。十四~十七世紀のヨーロッパは、わずか三年以外は戦争の連続であった。(P161)日本人は世界史についてこういった俯瞰をする必要がある。

 司馬遼太郎は日本は日清、日露戦争までは立派だったが、その後傲慢になって大局を見誤ったと言う説である。これに対し西尾氏は、傲慢になったのではなく、勝利で大国となったのだがその自覚がうまくできずに、適応しきれなかったと述べる(P166)。恐らくそれが正解である。どこの国にも傲慢なものはいる。それと戦争への勝利をリンクさせて傲慢な人間を強調して見誤ったのが司馬である。司馬は眼前の敗戦に呆然とし、目の前の同胞の愚かさだけが目につき、日清日露の戦役に勝利した日本人が偉大に見えたのである。戦前の日本人は欧米人に比べれば遥に謙虚であった。今の日本人が愚かになったのは、アメリカの占領政策が根本原因である。日本人は変えられたのである。そして日本人は今のアメリカだけを見て、ペリーの時代も大国であったと誤解しているが、実際には五大国の中には入っていなかった。第一次大戦の終了後は現在のイギリスの歴史の教科書に「二つの若き大国の出現」と書いてある(P168)のだそうである。

 意外なのか意外ではないのか、アメリカは、日本やヨーロッパと異なり、共産主義に好意的であったということである(P170)。だからアメリカがシベリア出兵したのは、日本が支援するシベリア極東共和国を倒して、自前のシベリア極東共和国を作って、トロッキーと組んでシベリア開発を行うことだった(P171)。このアメリカの甘さが、全てを無に帰すことになったのである。確かにアメリカは共産主義を民主主義の一種と誤解し、ファシズムと区別していた節がある。

 西部邁、小林よしのりは保守と言いながら不可解な人物である。両氏は反米テロを礼賛する。西部氏に至ってはビンラディンをキリストになぞらえる(P189)のだ。小林氏はニューヨークへの9.11テロを特攻隊になぞらえる漫画を描いている。だが、特攻隊は軍艦を攻撃したのであって、民間人を標的にしたテロリストとは全く異なる。小林氏は女系天皇容認論まで唱えており、彼の思想には時々混乱が認められ、不可解ですらある。最近の言動を見ると小林氏はただカッコ良いことを言いたいだけなのだろう。その証拠に彼自身をいつまでも若くてハンサムに描いている。

③政治: いわゆる55年体制の自民党の派閥の説明は、これまでの蒙昧を晴らしてくれた。自民党長期政権の時代には、自民党独裁と言われたがそうではなく、派閥の主流交代によって党内で政権交代が行われているのも同じだと言う言説が保守の側からなされていたし、小生も何とはなしに同意していた。これ自体は間違いではないのだが、西尾氏はもっと深く分析している。

 派閥は結局は派閥であり、各々の思想を持った政党ではなかったというのだ。派閥は結局は思想の異なる人たちの集団で、人脈と金で離合集散していたのに過ぎない。自民党全体としては右から左までの日本国民が持つ思想の分布の人間から構成されていたのであって、決して左翼に対抗できる保守政党ではなかった(P272)のだ。ただ自民党の思想の数的分布が国民の思想の数的分布に比例していたから、全体としては左翼政党となることを避けることが出来たのである。

これが平成22年に政権についた「民主党」と異なる。民主党の組織票は極左翼の労働組合しかない。これでは永遠に政権は取れない。そこで「保守的」「あるいは「自由主義的」な組織票を持たない人物が表に出ることにより、あたかも自民党に類似した政党に見せかけて、無党派層の票も取り込んで政権を取ることに成功したのである。これに対して社会党と共産党は確信的なマルクス主義政党であったから、国民は一定以上の議席を与えなかった。これで自民党に野中広務や加藤紘一のような、思想的には左翼としか思われない人間が長老として存在していた一間不可解なことが理解できた。彼らは利権の亡者というところだけが自民党らしかったのに過ぎない。

④経済: ここでも歴史で述べた司馬史観が否定されている。「・・・日本人は同じ健気さと、同じひたむきさで生き続けたと思っております。にもかかわらず、自分が日露戦争の戦勝の後に大国となったということに気がつかなかった明治人、そして現実が急変し、その後アメリカが新しい悪意を示して太平洋に変化が起こるのですが、その現実に対し大国としてのルールで渡り合う気概と計略が欠けていたことが問題だったのです。つまり、環境が変わったのに、今までと同じやり方、考え方、日露戦争まで上向きになって一所懸命獲得してきた日本人の劣勢の生き方というものを続けていた結果の失敗です。決して傲慢になったからではなくて、現実が変わり、アメリカが戦争観を取り換えたという、その現実の変化を見ながらそれに堂々と適応できなかったのが失敗の原因ではないかと思います。(P303)

 戦前の日本の失敗をこれほど的確に示したものは少ないであろう。日本はヨーロッパの権謀術策のルールは学んだし、学ぶことは可能であった。だがアメリカの対応というものは不可解で予測不可能であったのである。だから司馬遼太郎のように傲慢だと切り捨てるのではなく、戦前の日本人に万感の哀惜を持つのである。

 日米構造協議などにおいて、日本の国内に「植民地型知識人」が多数いるという。例えば堺屋太一や天谷直弘で、米国の対日圧力を、「日本の消費者の役に立つ提案を米国はしてくれた」と日本のマスコミに呼びかける(P319)。西尾氏はたとえ良いことでも外国の意志で行えば、自国を裁く基準を外国にゆだねることになるというのだ。日本国憲法が米国製だと分かっても護憲派と呼ばれる人たちは、良いものは良いのだと言って恥じないのも同じ精神構造による植民地根性なのであろう。

 西尾氏が郵政民営化に反対するのは分かるが「国鉄の民営化は成功したといわれていますが、地方線が廃線になって苦しんでいる人は多いのです。公平が安心感を与え、統合が国力を産む明治以来の国民的努力はあっさり否定してよいものでしょうか。(P323)」というのは一面だけの真実である。戦後の経済成長は自動車産業と共にあった。同時に道路も整備されていった。これらが鉄道との調整なしに行われたために、鉄道の衰退の予兆はあった。そればかりではない。国鉄は労働組合の巣になっていて、国鉄を悪くすることが革命の狼煙である、という思想から故意に国鉄を悪くしていったのである。

 国鉄民営化の真の目的は労働組合潰しである。遵法闘争なるものを繰り返して営業の妨害をするから、労働運動を正常化するためには民営化するしかなかったのである。過激な組合活動をしても首にできない官公労はどうにもならない存在であるからである。国鉄をあのまま放置すれば、組合活動によっていずれ国鉄は潰れたのである。この点が国鉄民営化以後に行われた各種の民営化と異なる点である。

 西尾氏に欠けているところが唯一あるとすれば、過激な左翼思想の労働組合、という視点がないことであろう。政党においても左翼の力の源泉は労働組合、特に官公労である。西尾氏はそのようなものに対峙した経験がないのであろう。教育の項でゆとり教育の批判をしているが、それにも労働組合の視点はない。多くの公務員が週休二日制になっているのに、教師だけが週休二日ではないから、何とかしてくれという、労働組合の要求がゆとり教育の始まりだと私は考えている。単に休みを半日増やすのでは変だから、教育の密度を減らして「ゆとり教育」ということにした。

 考えてみれば授業時間を短くすれば、教育の密度を増やさないと同じ授業の進捗率が保てないのは当然である。それで、ゆとり教育という名のもとに授業の進捗率の低下など、教育密度の低下を容認したのである。これは日本的な言葉の詐欺である。その詐欺がまかり通ったのである。左翼思想に支配された労働組合の繁栄は日本を亡ぼす。

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戦争は好きですか

2019-07-13 00:33:46 | Weblog

 戦争は好きですか、と聞かれて正面切って好きですと答える人はいないだろう。だがそれは本当の気持を答えたのだろうか。大河ドラマ「風林火山」は特に人気があったという。人気があるというのは好んで見る人が多いということである。だがこのドラマの時代は戦国時代である。日本中が戦争をしていた時代である。しかも物語りは武田信玄が軍師の山本勘助を使った戦いがメインテーマである。

 なるほどこのドラマには毎回戦闘シーンが出るからいやだと見ない人もいるだろう。しかし多数派は好んでみているから視聴率が上がる。もし戦争は嫌だからといって、このドラマから戦闘シーンを抜いたらドラマが成立しない。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」も同様である。手榴弾によるむごたらしい自決シーンもある。日本軍の絶望的な戦闘シーンがメインテーマである。私のように日本兵が米兵を機関銃でなぎ倒すシーンを見て心の中で快哉を叫んだ人も多いはずである。

 日本が勝っているシーンは、たとえ戦争であっても素直に喜ぶのである。それは本当ではないのか。それでも戦争は凄惨だからいやだ、では矛盾しているではないか。いや、矛盾はしていない。今からそれを説明しよう。そもそも、戦争はいやだと言う意見も、戦勝に快哉を叫んでいるのも、戦争の多面性の一部を表しているのに過ぎない。

 戦争にはいくつもの側面がある。このことをほとんどの人が理解していない。特に戦争は悲惨だからいやだと一方的に主張している人にこの傾向が強い。戦争の多面性とは何か。戦争にはいくつかの異なった見方ができる。それは

①政治の延長としての行動、②歴史、③叙事詩、④自己の直接体験、⑤軍事技術的側面

 実は戦争にはこれだけの多数の面がある。多くの日本人はこのことを理解しないから、世界の常識から取り残される。それを説明しよう。

①政治の延長としての行動
 イラクがクエートを電撃的に占拠併合したとき、米国はイラク軍の撤退を要求した。これは外交交渉である。しかしこれを拒否したために、アメリカは撤退期限を設定し、期限が切れても撤退しない場合は開戦すると通告した。イラクはこれを単なるブラフで開戦する気はないと見て無視したために、アメリカはイラクに侵攻して、湾岸戦争が行われた。

 この結果米国は、クェートの独立という政治目的を達成した。米国政府が行った、外交交渉も戦争も、クェートの独立回復という政治目的の手段に過ぎない。外交交渉で目的が達成されないから戦争と言う究極の手段にやむを得ず訴えたのである。

 政治としての戦争は単に政治家とってばかりではない。他国による侵略に対して個人が憤りを感じて、開戦と言う政治的判断に積極的に賛成するということもある。まさにパレスチナの人たちがイスラエルに絶望的な戦いを続けているのは、指導者の判断だけではできない。こうした国民の多数の支持がなければできない場合が多いのである。

 日本人の誤解はこの個人的な判断を過少視するか無視していることにある。独裁国では独裁者の命令により国民がいやいや戦争に駆り立てられることがあるという偏見である。独裁者スターリンですら、ドイツの侵略による祖国滅亡の危機を訴えて多くの国民の支持のもとに第二次大戦を戦った。スターリンは大祖国戦争と命名し、それまで弾圧したロシア正教会にも要請し、信者は命を惜しまず祖国のために戦った。
 
 ヒトラーはベルサイユ条約で奪われた領土を軍事力により回復し、国民は快哉を叫んだ。ドイツの「ヒトラー」という映画を見よ。ドイツ自ら起こした戦争であるにもかかわらず、侵攻する米ソ軍に対しても絶望的な戦いをしながらも、ドイツ軍は最後まで整然と戦い、国民は支持した。北朝鮮の金日成による韓国侵略は独裁者の過誤であるにもかかわらず、北朝鮮人民は祖国統一の戦争に嬉々として参戦した。

 繰り返す。独裁者がいやがる戦争に国民を駆り立てるというのは、歴史的になかったか、あるいは例外である。かのインド遠征をしたアレクサンダー大王でさえ、将兵の歓呼により進撃したが、将兵が戦争に疲れて厭戦すると故国に退却しなければならなかった。

②歴史
 歴史の一部に戦争も含まれる。戦争を歴史の一環として捉えるのである。戦争抜きに歴史は成立しない。なぜ戦争が起こったのか。政治家や軍人の戦争指導はどうだったのか、軍事技術の運用が適切であったかなどである。これは純粋に歴史を学問として捉える場合と、①の政治に生かすための実用的な側面を持つのは、歴史研究一般の持つ側面と同じである。

③叙事詩
 叙事詩すなわち物語である。先の風林火山や硫黄島からの手紙などがこれに属する。抒情詩ではなく、叙事詩は過去に起きた事実に基づくドラマである。ドラマだから、必ずしも歴史的事実としてあったことの羅列ではない。人間の内面的心情などの描写もある。だから事実ではなく、ライターの想像もある。戦争は人間の生命をかけたシリアスなものだから、ドラマとしては緊張感のある素晴らしいものができる可能性がある。

 この面を捉えれば戦争は確かに「面白い」のである。もちろん面白おかしいという意味ではない。戦争の緊張感がドラマの素材として適したものである蓋然性は高いのである。

④自己の直接体験
 戦争に行った身内が戦死する。あるいは自ら負傷するなどという実際の体験である。無事に戦争から帰ってきたとしても、人を殺したという体験によるトラウマは残るかも知れない。直接体験だけには限定すれば、戦争は悲惨なことだけに過ぎないということになる。私とて戦争により身体が不自由になれば、絶対的反戦を叫ぶのに違いないのである。

 ①の政治としての戦争などの他の意味を閑却すれば、戦争はただ人を殺し、傷つけるための活動に過ぎないということになる。遊び帰りに高速道路で事故にあった中年夫婦を知っている。夫は即死した。妻は奇跡的に助かったが下半身不随になってしまった。妻は周囲に死にたいと繰り返していた。

 この妻にしてみれば自動車などなければ良いと言うに違いない。戦争は悲惨だから絶対反対と叫ぶ人でも、自動車廃止に賛成はしまい。なぜだろう。自動車交通は悲惨な自己体験ばかりではなく、流通や交通の必要な手段という多面性を持つものだからである。自動車をなくせば現代文明は停止するからである。戦争には自己体験を絶対視して他の側面を無視するのに、交通事故だけは自己体験を軽視して、他の側面を重視するのは明らかな矛盾である。

 戦争と交通事故を同一視するのはおかしいというなかれ。日本では一時期は毎年一万人前後が交通事故死した。これは一年続いた日清戦争の死者に等しい。交通事故死を減らすことに努力が払われているにもかかわらず、これだけの人は確実に死んだのである。その犠牲の上に自動車の便利さが成り立っていると言えない事もないのである。

 戦争にしても、一方的に行われるのではない。湾岸戦争でも軍事的圧力を背景にした外交が成功すれば、戦争しなくても済む。それでも外交的圧力は、戦争も辞さずという姿勢がなければ成功しない。わざわざ戦争するよりは、軍事的圧力だけで、犠牲者なく政治的目的を達成する方が政治としては上策である。戦争においても好んで犠牲者を作り出すのではないのは自動車交通と同じである。

⑤軍事技術的側面
 現代の飛行機や宇宙飛行などは軍事技術の産物である。飛行機は戦争の道具として極度に発達した。旅客機も同様である。DC-3という軍事用の輸送機は戦争のために、何万と大量生産された。第二次大戦が終えていらなくなったDC-3は安く大量に民間に払い下げられて旅客機として使われた。その安さが民間の飛行機旅行を可能にした。それで得た資金と需要で航空機メーカーは次々と旅客機を作って今に至っている。

 コンピュータの授業を受けると最初に教えられるのは世界初のデジタルコンピュータENEACである。ENEACは大砲の砲弾の弾道計算のために作られた巨大なものである。マイコンのはしりは飛行機の機関銃の照準機に組み込まれた、アナログコンピュータであろう。

 このブログに使われるインターネットも、軍事資材の運用管理や戦車など軍用機械のマニュアルの統合運用のためのコンピュータネットワークとして開発されたものである。インターネットとして民間に解放された現在でも、軍事利用の側面は飛躍的に拡大を続けている。戦争がいやならインターネットも使わぬがよかろう。インターネットの民間への普及はコストや運用技術の発展も含めて、戦争の技術の発展を支えている。つまり戦争に協力している。

 以上戦争の多面性について述べた。このような説明を私自身聞いたことがない。だが自己体験だけで戦争絶対反対を叫ぶ人には、それでも戦争がなくならないのはなぜか、という肝心なことに故意に目をつぶっているように思われる。

 戦争反対という声が日本に満ちて多数派になったのは、戦後のことである。日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満洲事変と日本は明治維新以来多くの戦争を戦った。一部に反戦の声があったものの、多数派は戦争賛成であった。それが戦後突然変わった。これは偶然ではない。なぜか。

 あけすけに言おう。大東亜戦争の敗戦までは勝った戦争である。人々は勝てるから戦争に賛成したのである。戦争に勝って領土や賠償金を得たから賛成する、負けて犠牲だけで利益がないから反対する。一面にはそんなことなのである。戦争に絶対反対の人は、勝てる戦争なら賛成するのに違いないのである

 ベトナム戦争末期に米国では反戦運動が起こり、とうとう多数派になり政治を動かして戦争は終わった。反戦運動はソ連や北ベトナムの謀略と言う側面もある。第二次大戦ですら米国にも日本の謀略による黒人の反戦運動があった。かたや反戦運動が成功し、かたや失敗したのは何故か。ベトナムでは米国は10年戦っても勝てる見通しがなかったからである。米国民はいつまで経っても戦争に勝てないとわかったから反戦に転じたのである。それだけの話である。何と現金な反戦運動。

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書評・日本農業への正しい絶望法・神門善久・新潮新書

2019-06-30 21:21:28 | Weblog

 図書館に申し込んで一年近く待ったのだが、根本のところで意見が相違するのでがっくりした。学べるものより批判が多くなってしまうのだ。農業を専門とする学者なので、情報量は恐ろしく多い。だが考え方にバランスを欠いているように思えてならない。同時にマルクス主義的思考の影響が強いと思われる。しかし農協や兼業農家の現状などはよく捉えていて、一読の価値はある。思考の整理のために、借りるのではなく買おうと思うくらいである。

 氏の家には「折に触れて全国各地の農業名人から農産物が届けられる。彼らは、私に代金を一切請求しない。厚意での「おすそ分け」だ(P30)」そうだ。しかも奥さんと二人だけなので必要量は少ないのに、送られてくる量は多いのだそうだ。「親愛の気持ちを表したいのだろう」という。厚意も親愛の気持ちも本当であろう。本で公言する位だから違法ではないのも間違いはない。

 質も高く量も多いから金に換算したら相当なものになるのであろう。農産物は農業名人の作品ではあるが、一方では生活必需品である。生活必需品は現金と等価である。一面では氏は現金を貰っているに等しいのである。氏は無邪気なのだろうか、無神経なのだろうか。法に触れようが触れまいが、道義的には賄賂と言われても仕方ないのである。現に氏はこれら農業名人の「技能集約的農業」だけが日本農業が生き残る唯一の道だと断言しているのだ(P103)。心情的には物をもらっても動かないにしても、これらの人の情報に偏ると言われても仕方ない。小生にはこの神経は理解不能である。

 担い手不足の嘘(P50)は詭弁に近い。担い手不足になる原因として挙げているのが①若者が耕作放棄地を借りて就農したところ、地力が回復するようになった途端追い出された、として農地所有者が担い手が定着するのを嫌っている。②美人の若者が収納するとマスコミなどに持ち上げられて技能習得を忘れているうちに、周囲の言うことを学ばなくなって居場所がなくなり、マスコミに相手にされなかった結果、夜逃げ同然にいなくなった、という例である。果たしてこれが、一般的なのだろうか。そうでなければ、こんな事例を「担い手不足の嘘」として一般化されるのでは困る。

 ①の例を敷衍して、高齢の農地所有者が耕作放棄しても儲かるような仕組みになっている、と言うがこれを最も問題にしているのだ。本末転倒である。後継者がいないから、高齢化して耕作放棄せざるを得ないし、先祖伝来の土地を人手に渡したくないから仕方なくズルをするのだ。原因は後継者がいないことなのであって、ズルをするから後継者がいないのではない。肝心の就農したくない人が多い原因については論じないのである。

 私の田舎は父の代まで旧式の専業農家だった。子供のころ手伝わされた範囲だけでも辛いものだった。いち早く耕運機を買ったのも楽をするためで、収益を上げるためではなかった。馬と違い耕運機なら中学生にも扱えた。耕運機は購入費も維持費も高いが、だからといって農業収入はさっぱり増えない。そればかりか耕運機が活躍するのは、年間一か月もなかった。

父は農閑期に土木作業員として働いた。農閑期はすることがなかったし、生活の近代化には現金が必要で、農業だけでは現金収入が年々不足するようになったためである。父祖の世代の辛苦を知る私たち兄弟は誰も就農しなかったし、父母もそれを望んだ。かなり広い土地を持っていても、昔ながらのが家族だけの農業で、現代的生活をすることは不可能な時代になっていたのである。戦前は生糸生産もしていてそれなりの現金収入もあったはずだが、それも失われた。養蚕のための小屋もあったが、倉庫として流用されていた。

母の実家は米以外に野菜やお茶で儲け専業農家でも裕福だった。その結果、従兄は進んで農業高校に行き、就農としてある花では栽培の講師をするほどになって、海外旅行も頻繁に行き生活もエンジョイできている。その息子も就農した。就農するか否かはこうして決まるのであろう。

 なお、「担い手不足の嘘」の項には農協が電話一本で全ての農作業をしてくれる受託サービスをしてくれるそうだ。当然氏はこれを否定的に書いている。しかし、これは企業の農業参加の可能性を示唆しているのではあるまいか。筆者は企業の農業参入に反対している。「企業が農業を救う」のという幻想(P55)と書く。理由は「宣伝や演出の戦略にあわせた農業生産をさせるためには・・・なまじ耕作技能はないほうがよい・・・そういう企業は農業ではなく広告をしたいのだ」というのだ。

そしてマスコミに取り上げられたり、派手なスローガンが飛び交うと批判する。氏が例示したようにそういうケースもあろう。しかし企業が参入するのに反対する理由がそれだけ、というのは実に奇妙である。氏の言説は実にバランスを欠く。広告宣伝のために企業が農業をする、というのはあまりに奇妙である。企業は農業参入そのもので利潤をあげたい、というのが第一義の理由である。広告をしたいと言うのは、広告宣伝を常とする企業の習性による副次的なものであろう。

 「経済学の罠」(P75)とは、政府の介入なしに企業の自由競争が生産効率は最高になるという経済学の教科書の言説の前提は、取引相手を探すのにまったく費用がかからず、取引にあたって違法行為がなく、決裁も滞りなく行われるのが前提である、と主張する。これらのことは実現がほとんど困難だから、企業の自由競争がベストだと言うのは間違いだと主張する。

 だいいち「取引相手を探すのにまったく費用がかからない」と言うのは絶対にあり得ない話である。そもそも今の日本には「政府の介入なしの企業の自由競争が生産効率は最高になる」と言う言葉をそのまま信じている者はいまい。規制は必要である。人により異なるのは規制の程度である。規制をなくすために「・・・官僚や業界団体さえやっつければ、日本農業は劇的に強化され、農業は成長産業化し、輸出産業にもなる」という間違った論理を展開する、という。確かにこれに近い極端な言説をするものはいるし、単純化し過ぎている。適度な規制は必要であると、大多数の人は考えている。例外を一般化する悪癖がここにもある。

 氏は表向きはどうか知らないが、共産主義的信条の持ち主のように思われる。オムロンの植物工場の失敗例の引用が「しんぶん赤旗」である。企業参入について別な動機があるとして反対するのも、さかんに労働の「商品化」批判をするのもその表れである。町工場を称賛するのも同じである。氏は共産主義観点から大企業批判している一面があるとしか思われない。そう考えると氏が、労働が商品化したマニュアル依存型ではなく、個人経営の技能集約型農業を絶対視することも理解できる。マルクスの理論では、厳密には農業労働は「労働」ではないにしろ、「取引相手を探すのにまったく費用がかからない」と突然言うのは、マルクス主義では、営業活動そのものは労働とはみなせない不要な行為だと考えられているからであろう。

 いずれにしても氏は日本の農業には機械に頼らない技能集約型しか未来はないと考えている。そうすればJAに対する容赦ない批判も、補助金のばらまきでうまくやっている兼業農家に対する批判も理解できる。両者は持ちつ持たれつだからである。従ってJAに対する批判は読むべきものがある。

「経済学の罠」の後半の「取引にあたって違法行為がなく、決裁も滞りなく行われる」という前提条件はあらゆる経済行為に必要なものである。この前提が守られないのであれば、どのような生産形態の社会でも、生産も経済も崩壊していることを意味するから、意味がない前提である。大規模経営批判で「まじめに農業に打ち込む環境になければ、規模という外形にこだわっても無意味」だというのだが、この前提も資本主義が成立する前提条件である。

小室直樹氏だったと思うが西欧にキリスト教をベースにしたモラルがあるために、資本主義経済が発生し、日本にも別なベースによるモラルがあるのだそうだ。単に金儲け主義だけでは資本主義は成立しない。「まじめに農業に打ち込む」精神は資本主義社会に必要な前提である。技能集約型農業も同様であるし、マニュアル依存型農業も同様であるはずだ。そういう条件であれば規模が小さいと言うのは絶対条件ではない。

私には技能集約型農業には氏が敢えて触れない欠点があるように思われる。氏が技能集約型として例示しているのはほとんどが野菜農家である。多分最初に紹介されている「二人の名人」だけが、米農家である(p15)。この二人は反当り収穫量と食味値の抜群の良さが紹介されている。たが果たして、死の数年前から野良に出ることができなかったこの二人が、一般に言う定年の60歳前のころ、米だけで家計を支えるのに十分な収入を得ていたかが記述されていない。つまり名人の農業法と体力で、生計を立てるのに必要な量と単価の米を作ることができたのか否か示されていない。狭い面積を多くの労働力をかければ反当たり生産量は増えるが、労働力辺りの生産量が多いとは限らないからである。

もし、技能集約型農業が野菜にだけしか適用されないものだとすれば、それに全ての農家が専従すれば、日本の農業生産は極めていびつなものになってしまう危険があるのではないか。もう一点は、人間の能力と生産量である。説明によれば技能集約型農業は相当のやる気と技能を必要とする。日本にそのような人間がどの程度いるのであろうか。極めて少ないのではあるまいか。工場生産でも同様であるが、高度な技能を持った人間だけが生産に携わっている産業はない。もし高度な技能を持った人だけしか従事できない産業が全てであったとすれば、多くの人が就業できない。だが現実には、マニュアル通りに真面目にやれば、平凡な能力の人間にもできる仕事も必要とされている。そして高度な技能を必要とする仕事と、マニュアル通りの仕事の中間は欠落しているのではなく、その間の技能の程度は連続しているのである。

氏は製造業をあまりに単純に理解しすぎているように思われる。そして町工場を農業名人になぞらえて美化し過ぎているように思われる。工場生産ではマニュアルを使用し機械を使用した大量生産は、一品作りの製品に比べ品質が劣るとは限らないのである。正確に言えば、機械的に大量生産可能な製品を、一品作りに戻せば確実に品質は落ちるし、コストも膨大にかかる。それは大量生産された車の表面仕上げや加工精度の良さを想像すれば理解できるであろう。また町工場で作られているものの多くは、大量生産のためのマニュアル作業によってはできない部分を受け持っている。

つまり多くの場合高度な技能の町工場で作られる製品は多くの場合部品であり、マニュアルで大量生産されるものに組み込まれる補完関係にある。また、ロケットのようなハイテク産業の単価がなぜ高いか。根本的には知的にも肉体的にも多くの人間の労働力を必要とするからである。だが社会で必要とされているのはほとんどがハイテク製品ではない。氏の推奨するのはハイテク製品だけ作る農業に特化することのように思われる。それでは一般的に農業を多くの普通の若者の就業可能な産業にはできない。

高度な技能の寿司職人は、スーパーで売られている大量販売の寿司の品質の維持向上には不可欠である、と言っていることから、氏はマニュアル型生産と高度な技能の商品との分業について理解しているはずであるが、農業や工業への理解にはそのことが反映されていないように思われる。40年位前のカラーテレビなどというものは、今のものに比べれば品質は桁違いに落ちるは、給料に対する価格も桁違いに高いものだった。マニュアル生産によって現在のテレビの低価格高品質がある。私は農業でもそのような道はないかと思うのである。

大規模、企業による農業反対論にも異論がある。どこに書かれていたか判然としないが、氏は失敗の例として、販売活動に力を入れ過ぎて肝心の農業技能がおろそかになった人をあげている。しかし販売活動は必要であろう。いいものを作っても知られていなければ売れないからである。しかし個人農業で販売活動に力を入れれば肝心の農業に専念できない。身は一つだからである。だが大勢例えば100人いれば1人が販売に専念しても残りは大勢いるからロスは極めて少ない。そして大勢いれば研究開発して新製品や良い製品の研究に配分できる人ができる。

これが企業による産業活動が成立する理由であろう。100人いれば、給与の支払いからそれなりの農業規模とならざるを得ない。単に大規模大量生産に規模が有利なだけのではないのである。従前は農協が販売はや研究開発を分担していたから個人農業も成立してきた。しかし農協の肥大化と個人農業の崩壊によって、農協は組織維持のために農業以外の分野にも手を出さざるを得なくなっている。今の農協は農協のためにあるのであって、農家のためにあるのではなりつつあり、かえって凋落をまねいている。本来の仕事がなくなったから、農協が農協のためにあるのは組織としては当然の成り行きである。

農協と農家は別組織であり、一心同体ではない。だが企業なら違う。生産担当であれ、販売、研究担当であれ会社が倒産しては困るのは同じである。つまり所属する会社のために働くモチベーションが存在する。小規模農家を支えると言う本来の業務が減少している今、農協が必ずしも農家のために働くモチベーションがないのは当然である。もちろん企業が農地を保有するのには問題がある。しかし小規模専業「農家」が農地を保有することにも実態として問題を抱えているのは氏の指摘するところである。つまりだれが農地を保有しようと農業をするモチベーションがなければ、農地の保有は悪用される。

氏は「マニュアル化された工場で正確かつ忠実に指示に従う優良作業員として何年働いても職人技は身につけられない」(P83)と言うのだが、この言葉が氏の製造業に対する誤解を象徴している。意図せずとも氏の言葉はベテラン工員に対する侮辱である。単品設計生産製品では、設計者が持ってきた図面を、こんなもの作れるか、と突き返すベテラン工員がいるのである。職人技がマニュアル化した工場にも存在するのである。単にマニュアルや設計図に従っているのではない。第一にいくら完全なマニュアルを作ったところで、作業に対する習熟は必要である。氏は無意識にチャップリンのモダンタイムスの工場のように、単に物を右から左に動かす作業をイメージしているのではなかろうか。溶接を例にとろう。一番簡単な溶接作業ですら、言われた通りやってもなかなかできるものではなく、危険なものである。

溶接には材料や条件によって様々な種類があり、各々技能認定試験がある。試験には技能や知識の程度によりランクがある。単にマニュアルに従うだけではない。しかも高度な資格を取ったところで美しい溶接のビード(溶接した部分)が作れるわけではなく、永年の習熟がいる。マニュアルがあって高い資格を取った後にも不断の勉強と知識と経験は必要なのである。これも職人技である。

しかしこのようにして知識と経験を積んでも溶接工が行うのは、「金属の接合」という氏が嫌う「分業」の一部なのである。氏の称揚する「金型作り」にしても自動車生産などの工程のほんの一部である。ほんの一部をになう分業が集まって自動車産業と言う巨大産業が成立するのだから分業は忌避すべきものではない

技能集約型農業は少人数で全工程を担う。個々人の技能のレベルについては、技能集約型農業従事者と町工場職人や溶接工は等しく高度なものを持ちうるのであろう。しかし、自動車産業は、その技能者が沢山集まる必要がある。ここまで敷衍すれば意図することが分かるであろう。農業を企業化することにより、研究開発、営業、各種技能を持つ生産技能者が集団化することができる。そこには、個人農業に近い小規模農家とは違った可能性が開けるのではなかろうか。単に規模の大きさによる高効率化での低コスト生産を言うのではない。それは技能集約型農業と良きライバルとなり、双方の発展の可能性があるのではなかろうか。もちろん氏の言う農地保有の問題はあるから、制度作りは必要である。

氏は農業の機械化についてあまり語らないが、嫌っているように思われる。しかし現代で田んぼでの機械を使用しない米作りなど絶望的に困難である。著者は大きな田んぼで機械なしの稲作をしたことがないのであろう。がその反面町工場の職人芸を称揚するのは矛盾している。職人芸であっても町工場では機械を使用しないことは絶対にあり得ないからだ。いくら化石エネルギーを忌避したところで、電力なりの動力を使用しないのはもはや町工場であれ工業とは言えない。農業についてもその辺りのスタンスが本書では極めて不分明である。

氏は日本の技能集約型農業によって、日本に海外の農業者をまねくか、海外に行って技術指導するのが良い、と述べる。「・・・町工場で腕を磨いた技術者が海外で工場指導をしているが、それの農業版だ」(P105)という。また「K名人は・・・韓国・中国にも出かける。中国での農業指導に対して、温家宝首相から直々に感謝を受けたこともあるという。」(P199)

だが日本から技術指導を受けた中国、韓国がどう対応したか。中国は新幹線は自主開発だと嘘をつき、外国に輸出しようとして日本のライバルになろうとしている。韓国は日本の技術者を使い捨てにしている。要するに両国は技術を得てしまえば恩義など感じないのだ。しかも中国はチベットやウイグルで大量殺戮をし、ヒトラー顔負けの民族浄化をしている。そんな国の指導者に「直々に」会えたことに感動しているとは空恐ろしい。今巷間伝えられるような、ナチスドイツのような国が出現したとして、そのような国の指導者に会えたことを自慢すべきなのであろうか。氏には中国幻想がある。

氏の学校教育批判(P86)は私にはいびつに思える。「製造業の発達のために社会全体の労働の価値観を変える装置はさまざまにあるが、その典型が学校だ。」として次のような教育社会学の専門家の意見を紹介する。「近代社会で必要な知識教授と集団的規律訓練の場として、学校は制度化された。学校は子供を社会生活からある程度引き離し、強制的に囲い込んだ空間だ。学校の肥大化は、やがて社会が学校で習得したことによって成り立つ(学校が社会を規定する)転倒した様相さえ呈することもある。」

これに加えて筆者は「近現代の学校は労働の『商品化』を教え込むための装置とみなすことができる。農家の子弟も近代学校に通うことで、労働の『商品化』の感覚を身につける。また、テレビなどの電気製品の普及も、人々に無機的な時間の感覚を覚えさせ、時給などの近代的な労働の概念を導入し、労働の『商品化』を推進する。」というのだ。これは現在の学校教育の在り方の全否定である。氏は学校は資本家が労働者を効率よく使うための訓練機関だというのだ。日教組の管理教育批判とも酷似している。どのような社会でも最低限の集団的規律は必要である。それを教えるのは必要なことである。中国人のようにバスの列に並ばずに平然と割り込めば混乱する。最低限の集団的規律がないからである。

氏はP143で「学部卒のほうが『つぶし』が利いてよかっただろう」とし、大学院卒の方がとっぴな発想を育むことができる、としているのだから、学校教育そのものを否定しているのではない。それならば、学校教育のあるべき姿を提示しなければ無責任である。また家電製品が労働の商品化を推進する、というに至っては荒唐無稽である。氏の家にはテレビも家電製品もないはずはなかろう。それならば、家電製品に騙される大多数の愚かな大衆と自分は違うと言うのだろうか。

学部卒は使い回しされるだけで大学院卒の方が賢いと言っていることと併せれば、農業名人を持ち上げる一方で、平凡な労働者を見下げるエリート意識が垣間見える。これは共産党の前衛政党、という意識と類似する。労働者の前衛とは、労働者は自ら考えることが出来ないから、我ら共産主義を理解するエリートが大衆を指揮し、労働者大衆はそれに従うだけでよい、というのだ。マルクスは労働者階級が支配階級になるべきであると主張したが前衛などとは言わなかった。後世の共産主義者はそこに「共産主義の前衛」という言葉を発明して、共産党幹部が政権を奪取する理論的根拠にしたのだ。共産主義国ではどこでも一党独裁となる根拠はここにある。

 小生はかつての伝統農家出身で古い農業と古い農協しか知らないから、本書には示唆されることは多い。多年農業関係者と接触してきた著者は、さすがに既存の農業関係者に幻想を抱かず現実を見ている。しかし、一方で共産主義的偏見に基づくと思われる意見も見られる。P47に「戦前は欽定憲法のもとで・・・」と書くところなぞは、GHQの指示による教育にも従順である。米国の作った憲法を「民定憲法」というのであろう。また放射線被害については、警鐘を鳴らすあまりに、結果的に風評被害に加担することになるように思われる。原発事故以来、人体についても農産物についても放射線被害について非科学的な言説が飛び交っている。著者には農産物の放射線汚染について科学的な検証をし、風評被害をなくし、福島の農家を救っていただきたい。

結論から言えば氏の理想とする農業だけでは日本の農業が成立することは不可能な事は明白である。なぜなら一貫して、日本農業はごく一部の特別な能力ある者にしかできないものであるべきだと主張しているが、そのような農業ではバランスある農業生産品を育てることはできないし、特殊技能者は極わずかしか育てられないからである。だから、この本のタイトルは「自分の言っていることは正しいが、それが実践されたら日本の農業は絶望的である」、という意味をこめたものであると理解できる。


倉山満氏の馬脚

2019-05-13 00:04:50 | Weblog

 雑誌WiLLの2019年6月号の令和特集号の倉山満氏の元号についての小文には、小生ならずとも、多くの読者は唖然としたことだろう。小生は「嘘だらけの」シリーズ以来、倉山氏の著書にはまって、教えられること多大であった。今も国際法の本を読み返している位である。ところが、この小文は、倉山流に言えば、突っ込みどころ満載、なのである。逐次批判していく。

 冒頭から「国語辞典を取り出して」「令」の意味を云々する手法は、命令の令と言おうが令嬢の令と言おうが、辞書で「完結すると思うなど不真面目だ」という。そうだろうか。見識のある人物なら、辞書を引用するのは、単に辞書に依拠しているのではなく、辞書の意味がまともであることをチェックした上で、説明の便のために辞書を引用しているのに過ぎず、辞書で完結していると考えているようなレベルの人物でマスコミに論評する者は論外であろう。

 例えば、広辞苑の何版からか「従軍慰安婦」と言う言葉が登場した。そのことをもって、保守の論客で、従軍慰安婦と言う言葉を、国語として正しい、と断言する人はいまい。必ず、慰安婦なり従軍慰安婦と言う言葉の使われ方の経緯をひもとき、従軍慰安婦なる言葉の国語としての正当性がなく、広辞苑に国語として掲載することが不当であることを論ずるであろう。このようにまともな人なら、辞書を根拠としても、自己の識見により批判した上で使うのである。このように辞書を引用しただけで「完結すると思うなど不真面目だ」という、というのは、倉山氏の衒学に過ぎないと思われても仕方ない。

 以上はイントロである。次に「現代の漢文においても、『令』はレ点で読む使役の文字の典型例として登場します。」と言う。不可解なのは「現代の漢文」という言葉である。現代日本でも高校などで漢文は教えられているから、教科書などは多数出版されている。しかし、漢文の用法の根拠たるべき、漢文で書かれた現代の新しい書物、すなわち現代の漢籍というべきものを小生は寡聞にして知らない。だから現代には用法の「典型例」の出典たるべき漢籍が存在しない。高校で教える漢文も、古い漢詩や四書五経などの漢籍に拠っている。現代でもこれらの古い漢籍に用法を求めるのが漢文であって、漢文の使用が廃れた今では「現代の漢文」と言う言葉は存在し得ない。現代の北京語や広東語の漢字表記を「漢文」と誤解している人は論外である。

 倉山氏は、令和とは現代の漢文では「和に令す」すなわち、「日本国に命令する」の意味であると主張する。漢籍を典拠とすれば、これが間違いであることは、令和元年五月十二日付けの支那古典の専門家の加地伸行氏の一文が証明している。「令」と「和」の漢字を接続しての使っている漢籍は「礼記」で、元の漢文は「和令」だそうである。訓読すると「令を和らぐ」で、意味は、徳を布き禁令・法令を和らげる、というのだそうである。漢籍による用例を絶対とする漢文の世界では、倉山氏の「令和」解釈は「間違い創作漢文」の典型例に他ならない。

 もっと根本を言えば日本の近代の元号は、古典書物から漢字を二字を取り出して並べたものに過ぎず、そもそも漢文ではないのである。令和とは万葉集の文書の途中に「令」と「和」が順に出てくるから、その二字を出現順に並べたものに過ぎない。仮に、文字の出現順が、和が先で令が後なら「和令」と表記しなければならなくなってしまう。「令和」の出典の万葉集自体も中国の漢籍の出典がある。従って、漢文の多数の漢字の羅列の中から「令」と「和」のふたつを順に取り出してくっつけたものに過ぎない。つまり「令和」自体が漢文ではあり得ない。元号は漢文ではないのである。「令和」を漢文として延々と批判するのは無駄の限りである。倉山氏ともあろうものが何をとちっているのだろうか。

 例えば現代国語の「経済」は漢籍の「経世済民」という漢文、すなわち「世を経(おさ)め民を済(すく)う」から二字を拾いだし発明したもので、すでに漢文ではなくなっている。哲学などの明治日本で発明された二字熟語は、それ自体は漢文ではないのである。元号も同様である。

 ついでに倉山氏は、令和を幕末に元号案となった、「令徳」になぞらえている。朝廷が元号案とした「令徳」が「徳川に命令する」の意味だとして、幕府が拒絶したという悪しき前例を紹介している。これは豊臣末期に方広寺の鐘の「国家安康」の文字が、家康の名前の間に「安」の字を入れて、家康の体を分断する意味だ、と徳川方が豊臣方にいちゃもんをつけたことに類似している。この事件は大坂冬の陣の遠因となっていると言うからただごとではない。方徳や国家安康の命名の意図はどうあれ、その文字を理由として強い側が弱い側にいちゃもんをつける口実としたのに過ぎない。

 倉山氏の言うように、令和に悪意が秘められていたと仮定しよう。反対に、多くの保守の識者が主張するように、良きに解釈することも可能なのである。倉山氏の論は、すでに令和の元号が決した後に登場した。解釈に関する保守と左翼の論争の最中である。従って倉山氏の批判は左翼を利する結果となる。愛国者ならば戦争反対でも、始まった戦争には協力するものである。倉山氏の態度は戦争が始まった後に、敵国に味方するのと同然である。

 倉山氏は「国際法で読み解く世界史の真実」で、国際法の要諦の第一は「疑わしきは自国に有利に」と説いている。まさにそうではないか。新元号は決した。それにもかかわらず、左翼は令和の意味にいちゃもんをつけて、元号の廃止すら意図している。倉山氏の疑義がもっともな面があるにしても、疑義があると考えるならばこそ、愛国者であるならば、元号「令和」に有利になるように解釈すべきなのではないのか。

 なおWiLLの本号は実に皮肉な構成となっている。倉山氏を含む8名の「令和評」に続いて、資料編として「発言集 令和を貶める人々」というものが掲載されている。主として左翼系と考えられる人々による、令和批判の一覧を、「悪癖を一部抜粋したので紹介、永く記憶に止められたい」として掲載している。共産党の記者会見が典型である。WiLL誌が執筆依頼して掲載された令和評は、倉山氏以外は、令和を歓迎するものばかりであり、倉山氏が唯一の例外である、という体である。

 繰り返すが、WiLL本号は、令和を歓迎するために組まれた特集であるのに、倉山氏の論評だけが異様である。なお「発言集 令和を貶める人々」のなかには左翼以外に、自民党の石破氏が載っている。石破氏は今や、安倍内閣何でも反対の、党内極野党だからさもありなん、とはいうものの、たちが悪い。小林よしのり氏も保守を気取っているようだが、女系天皇を声高に言うなど、最近は支離滅裂な発言で、今や思想の根本がどこにあるか分からなくなってしまっている、不可解な人物である。小林よしのり氏は所詮芸術家であって、論理的に思想を論じることが出来る思想家ではないと思う。

 倉山氏の論は、本当に保守を憂い皇室を敬っていることだけは読み取れるだけに、残念至極である。


皇室の藩屏

2019-04-28 17:02:54 | Weblog

 平成三十一年四月二十六日の産経新聞の正論欄に、小堀桂一郎氏が「安倍内閣が残した3つの課題」とする中で、「皇室の藩屏の再建を図れ」という一項目がある。「占領軍により皇籍を離脱せしめられた旧宮家の方の一部の皇籍復帰といふ〈法的な工夫〉を通じて皇室の藩屏の再建を図れ」というのが、その主旨である。皇籍復帰と言う主旨には大賛成である。

 だが、小堀氏ともあろうものが、皇族のことを「皇室の藩屏」というのは、大いなる誤用ではなかろうかと思うのである。皇族に天皇陛下ご自身を含めたものを皇室と言うからである。つまり小堀氏は皇室の藩屏を皇族と看做していることになる。論中に「皇族と言う氏族集団の復活」と言っていることから、そのことは明瞭である。

 藩屏として天皇を守るのが皇族である、ということになってしまう。皇室の藩屏とは、皇室をガードする防壁、という意味であろう。皇室の藩屏とは旧華族のことをいうのであって、旧華族とは、公家たる堂上華族、江戸時代の大名家に由来するもの、国家への勲功による新華族、臣籍降下した旧皇族の3種から構成されているとされる。皇室の藩屏には、本来的に皇族は含まれないのである。

そのことは、明治期に出版されて、国会図書館に保管されている「皇室之藩屏」にも明らかである(インターネットでダウンロードできる)。ちなみに、日本国憲法で、華族制度は廃止されているから、華族の「臣籍降下した旧皇族」の中には「占領軍により皇籍を離脱せしめられた旧宮家の方」は含まれていないことに注意する必要がある。

 中川八洋氏は「徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇」という著書で、以上の事を踏まえた上で、皇室の藩屏は「あくまでも堂上公家の役割。皇族は“皇室の藩屏”ではない」と断じている。中川氏が藩屏を旧華族のうち、堂上公家に限定するのは、他の華族は歴史的に新し過ぎ、堂上公家は多くが藤原鎌足を始祖とする、格式ある古い家系だから、というのである。

 ついでに言うが、中川氏は皇族の役割は皇室の藩屏などではなく、皇室の血統を守る「血の冷凍保存庫(言葉遣いは感心しないが)であり、このためには、戦後に臣籍降下された旧皇族の皇籍復帰ばかりではなく、「大正時代から昭和初期にかけて臣籍降下され華族に列せられた十二名の元皇族の血を継ぐ子孫の皇族復帰」も実現すべきと主張している。

 中川氏はかなりエキセントリックな主張の展開をする奇矯な人物と見られかねない。しかし、かつて「諸君」誌上で、パネー号撃沈事件の真相について、旧海軍の奥宮正武氏と論争し、完膚なきまでに論破した(あくまでも小生の判定)ように、論理は極めて明晰である。中川氏の皇族復帰の主張は傾聴に値する、と考える次第である。

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モンスター官僚・面従腹背編

2018-07-18 18:05:35 | Weblog

 以前紹介したモンスター官僚の前川喜平氏が、とうとう座右の銘と語った「面従腹背」をタイトルにした本を出した。売れ行きが良いのだそうである。図書館で調べると6月に出版したばかりなのに、7月初めにアクセスしてみた都内の図書館全てで購入している。そればかりではない。予約状況が確認できた三図書館とも、全て予約待ちの状況である。どういう意味でか断定はできないが、読みたい人が多いのに間違いはない。

違法な天下りを指揮して馘首同然で退職し、野党からもマスコミからも非難ごうごうとなった。ところが、「加計問題」で元文科省役人の立場で安倍内閣批判をすると、マスコミは手のひらを反して、気骨ある元官僚のごとく持ち上げた。同時に出会い系バーという売春斡旋まがいの悪所に、勤務時間中に出入りしたことを報道されると開き直り、貧困女子の調査だと白々しい言い訳をしたが、多くのマスコミはそれを真に受けた風をした。

 当時言ったのが、座右の銘は面従腹背である。安倍総理に面従腹背を通したと言いたいのである。元通産官僚の岸博幸氏が「官僚のクズ」と罵倒するのも当然である。座右の銘とはその人の信条なり信念を言うものであろう。それを、上の者に媚びへつらい、その癖裏で裏切るに等しいことをすることが信念だと言うのだから恐ろしい。座右の銘の多くは、実現できなくても、その人の理想として、一歩でも近づこうと努力目標とする言葉であろう。理想が裏切りだ、と言うのだからなにをかいわんやである。

 だがこの言葉は安倍総理にだけ向けられたものではないはずである。天下りの件では前川氏は、野党からもマスコミからも痛烈な批判を受けて、嫌な目に遭った。しかし、安倍批判をした途端に批判が転じて野党やマスコミの寵児となり、出会い系バー通いが批判されることもほとんどなくなった。それなら前川氏が人間不信となるのは当然である。今氏を持ち上げている人たちに対しても、前川氏は面従腹背を貫いているのに違いないのである。

 あれほど非難しておきながら、途端に手のひらを反す面々を心から信用するはずはない。今は本の出版のチャンスもでき、売れている。講演をして稼ぐこともできる。しかし、間違えても前川氏を持ち上げた面々に気に入られない発言をしてはならないのである。

 氏は面従腹背の鎖に縛られたのである。もっとも前川氏は元々左翼官僚であったそうだから、安倍内閣を気に入らないのは当然だから、ドジを踏む気遣いは少ない。それにしても、GHQによってゆがめられた結果、教育行政のトップに、このような人物がつくようになった。日本の前途は多難である。

 ただ前川氏が見損なっていることがあるのではあるまいか。前川氏に安倍内閣批判の材料を提供したり、講演会の斡旋をしているのは文科省の労組の人達であろうと推察される。いくら前川氏が彼らに媚を売ろうと、彼等には事務次官などという出世競争とは、逆立ちしても縁のない人たちである。出世街道を歩いた前川氏とは、思想が一致しようが、立場は元々水と油である。本来蹴落としたい人物が権力者となったのが前川氏である。

 前川氏は生きてゆくすべを、本来味方であるべき彼の後継を目指す人々に託すのではなく、利用できる限りでしか利害の一致しない、本来の敵に委ねたのである。その証拠に中学の講演に前川氏が出て、文科省が調査に入った時、前川氏は文科省批判に利用された。批判されているのは前川氏の味方であるべき文科省幹部である。前川氏は期せずして、そういう綱渡りの路地にさまよいこんだのである。でもまあ、人生万事塞翁が馬。人生なんとかなるものである、という良き見本である。