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一部に最近アップした、アフリカ問題を論じたものと重複があるが、御容赦願いたい。この書評がいつまとまるか見通しがなかったので、一部だけ独立先行させてしまったためである。
5編の文章があるが、読めたのは3編「からごころ」「大東亜戦争『否定』論」「『国際社会』の国際化のために」である。残りは川端康成と井伏鱒二の作品に関連するので、興味が持てなかったのである。読んだ範囲で言うと、全般的に難読と言うこともあるし、くどい繰り返しが多く、もっと明快に書けないかと思った次第である。小生、かつては長谷川氏を、西尾幹二氏の後継者に擬していたことがあった。
だが、西尾氏の仕事の広さ、分析の明快さには未だに及ばない。もちろん、西尾氏になく、長谷川氏ならではの鋭い視点も数々ある。それをもっと明快に論じられないかと思うのである。直感が鋭い分、論証の不足を感じることもある。小川榮太郎氏が、解説で「処女作に、作者の全てが現れるという言い方があるが・・・寧ろ、既に、完璧な問いを最も完全な形で出すことに最初の著作で成功してしまった」(P245)というのだか、皮肉な意味でその通りと感じた。
彼女の最近の「神やぶれたまはず」を読んでも、その問いかけと答えに変化はなく、しかも明瞭な答えを出そうとしているようには思えない。つまり処女作から進歩がないようにしか思われないのである。最初の作に全てが現れる、とは言っても通常は深化がある。学識なき者の失礼な言い方かも知れないが、しかし氏の作品には、ずっとそれがないように思われる。
しかも意表をついた見解がいくらでも出てくるのだが、それらの統合がなく、分裂しているようにすら思われる。それはお前の読解力と素養のなさである、と言われそうで、当たってもいるのだが、やはり西尾氏の統合力と、奇を衒わない明晰な分析には及ばない気がしてならない。
1.からごころ
これを充分に評論する資質は小生にはないのであろうが、敢えてする。ひとつの手掛かりとして「・・・中国語という言語がまずあって、それが漢字、漢文で書きあらわされるようになってきた」(P40)というのであるが、「支那論」で書いたように、中国の専門家かの言うところでは、漢文は情報伝達の記号に過ぎず、中国語すなわち漢文ができたころの、古代中国語の文字表記ですらない、ということである。
これは決定的な認識の差であるように思われるが、その後の氏の展開を読むと必ずしもそうではない。国を治めるのは文字を持つ言語だから「・・・自然に、『漢籍』を中国語として受け入れた結果は」実際に離されるのは受け入れた国の文字を持たない言語だが、漢籍すなわち中国語が、その国の中枢を握る、という結果となる、というのである。
これは中国語を漢文、と置き換えれば済む話である。日本でも長い間、漢字仮名混じり分ではなく「漢文」そのものが公文書として使われてきたし、朝鮮などは日本がハングルを普及させるまで、文章は漢文しかなかったのに等しい。氏は「・・・発音の大きく異なる北京語と広東語がほぼ同一の表記でまかなえるのも」一字一字の音を指す強制力は弱いからだ、といっても音声を無視してよい、というわけではない(P45)、というのだが、これも北京語や広東語の漢字表記と、漢文とは全く異なるものである、という前提が忘れられている。
漢文の読みには日本では、呉音、漢音などがあるが、これは導入した時代の支配民族の漢字の読みを音読みとしたものである。ところが氏の言う広東語と北京語の音の違いと言うのは、地域の相違による、話し言葉の音の差によるものである。つまり漢文の時間的に相違することによる、漢字の音の違いと、話し言葉の発音の違いとは、全く同じとは言い切れないのである。同時代にあって地域が異なるから、発音が相違することと、呉音、漢音のように時代が相違するから、発音が相違することを同列に並べるのが変だと言えば分かるだろう。
例えば北京語の漢字表記は、話し言葉を文字表記した、清朝崩壊の頃からの白話運動の結果であって、漢文との共通点と言えば、漢字を使っている、ということしかない。このことは前述のように、小生のホームページの「支那論」で書いたから、これ以上は述べない。
日本人は漢文を読むのに、他の民族が成し得なかった「訓読」という「放れ業」をしてのけた(P42)。漢文を返り点などを打つことによって、日本語の順番に並べ替えて読んだのである。しかも、漢字の読みは「音読み」と「訓読み」を使い分けた。
その上、訓読では原文の持つ音を無視してしまったのである。それは、単に訓読みがある、というだけではなく、漢字の順番を変えたことによることも大きいのだと言う。その例として氏はDig the grave and let me die.という英詩の一行を日本語の語順に並べる訓読、という奇妙なことをして見せる。勿論、「digシテ」のように漢文訓読の際に使う日本語の助詞も付加してみせる。
こうしてしまえば、確かにアルファベットをきちんと発音したところで、元の英詩の格調は失われる。原文の音を無視する、というのはこのような意味が大きいと言うのである。前記のように、英詩を単語ごと分解して見せた、ということは漢字一字が英単語ひとつに相当する、という意味でも正しいのである。だが「・・・我々の祖先は、そもそも漢文を、『言語』をあらわすものとは見ていなかったのである。何と見ていたのかと言えば、純粋の『視覚情報システム』と見たのである。(P46)」というのはいただけない。
前述のように、漢文とは元来そのようなものであったというのだから、我々の祖先の理解は正しいのである。多分漢字を導入した際の日本人は、当時の中国人の話し言葉を理解できるものは大勢いたのである。とすれば、その話し言葉が漢文とは同じではない、と気付いたのは当然である。漢字は表意文字だとは言っても、音声とリンクしていないわけではない、と氏は言うのであるが、実際に表意文字を使って、音声と意味とを矛盾なく同時に表記させることなどできはしないのである。
だから「犬」をdogと発音する民族が漢文を読めばdogと読むのであって、イヌと発音する民族が読めばイヌと読むのである。支那では王朝が変わると多くの場合、支配民族も変わる。すると漢字の発音も変わったはずである。それが日本に導入される時代の相違によって、日本の音読みも、呉音、漢音などと変わった原因である。例えば「行」は音読みでも「ギョウ」と「アン」という、まったく異なる二つの音読みがあるのが、その典型的な例である。
ただし、実際に祖先が漢文を「純粋の『視覚情報システム』と見た」ことが間違っていて、本質は古代中国語の文字表記だったとしても、問題はない。祖先がそのように看做していたことが、結果的に他の中国の周辺民族のように、漢字に拘ったり反発したりして、日本人のように滅却することができなかったのとは、別の画期的な道を切り開いたからである。
新羅では漢字を万葉仮名のように使って自らの言語を表記する「郷(ヒャン)札(チャル)」が生まれたが、いつの間にか消えてしまった。ベトナムでは漢字を基として漢字もどきの文字(擬似漢字)を発明したが現代では使われていない。(P52)
これらは本来中国語を表すべき漢字で、自らの言語を表記するという不自然が見えてしまったからだ、(P52)というが、そうではあるまい。現在ベトナムではアルファベットが使われている。これはヨーロッパ系の言語を表すのに使われているのが基本のはずである。それが問題なく使えるのは、純粋な表音文字だからであって、元々ヨーロッパ系の言語を表記していたことは、ベトナム語をアルファベット表記することに何の問題もないことは事実が証明している。
それどころか元来アルファベット自体が、ギリシア文字などの別の民族言語を表記していたものが、歴史的に時間をかけて変化したものである。毛沢東は漢字による中国語表記を止めて、アルファベットを使うことを考えたが、そうすると北京語、広東語などが全くの異言語に近いのがバレてしまうので諦めて、漢字表記に拘ったと言う説もある。漢字という文字だけが、漢民族の紐帯だと知らされたわけである。
万葉仮名で問題なのは、漢字を使っているから、文章の意味とは関係がない漢字を当てるから、漢字の意味が見えてしまうことである。漢字を音としてだけ捉えようとしても、意味が見えてしまうから、音が表す意味と漢字の表意性が表す意味とは、ほとんどの場合、合わないから精神的には不愉快である。漢字漢文の意味を解することが深いほど、不愉快は甚だしくなる。
例えば、古今集の和歌の最初の十二文字の万葉仮名表記の例で
「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」
と書いて「難波津(なにわづ)に咲くやこの花」と読むのだそうである。「花」を「波奈」と書くのだから、波という漢字は、単に「は」の音を表すのであって、漢字の本来の「なみ」の意味は頭の中で意識して消し去らなければならないのである。不愉快、と言った意味がお分かりいただけるだろう。
結局日本人は漢字を崩すなどして、原型を留めないくらいに簡略化して変形することによって仮名を発明して、表意性が全くない表音文字を生み出したのである。氏は指摘していないと思うが、アルファベットなどの純粋な表音文字も、類似した過程で生まれたのだろうと小生は考えている。文字と言うものは、その始めは物の形を表したことから始まるしかありえなかったのであろう。「いぬ」の意味を現す文字は、犬の絵だとかそういう具体的な形である。それを「いぬ」という言語の音声で読んだのである。
しかし、いつまでもそれを続けていると、話している言葉や伝えたいことを文字で表すことにすぐ限界に達する。どのような過程なのか想像はつかないが、そのようにしてほとんどの文字は生き残りの為に、意味を捨象して表音文字となったのである。ところが漢字は表意性を喪失しない、という頑固な道を選んだ。つまり漢字は進化を停止した文字なのである。従って漢文を原始的な文字表記だというのは、その通りなのである。
蛇足が多すぎた。氏の説を敷衍しよう。ここからが本筋である。以上のように漢文を「純粋の『視覚情報システム』と見た」ことは、中国語と言う言葉の無視から来たものである。つまり日本人が「・・・現在のように日本語を読み書きすることが出来るということそれ自体が、この『無視の構造』に支えられている。(P60)」というのである。
だから無視の構造と言うのは、単なる国語表記の問題ではなく、小林秀雄氏の言う「私達の文化の基底に存し、文化の性質を根本から規定」しているものである、というのだ。「からごころ」とは「漢意」の読みである。なかなか辛いのは「・・・漢意は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけているのは、自分が知らず知らずのうちに外国崇拝に陥っているという事実に、頑として気付こうとしない、その盲目ぶりである。(P60)」という論理展開である。
こういう物言いが、氏の論理を小生にとって分かりにくくしている。それは後述しよう。維新の際に、日本は西洋の蒸気機関車や二十八サンチ砲などのテクノロジーばかりでなく、憲法や帝国議会と言った政治システムも取り入れた。「・・・すべて所詮は毛唐の発明した道具にすぎず、制度にすぎないではないか、と、ひとたびそういう風に見えてしまったらば、もう、それを大真面目で学ぼうということは不可能になる。いくら、それが自分達の国家と文化を守るのに必要であると分かっていても、それだけでは人は心から学ぶことは出来ない。・・・明治時代の日本について驚くべきことは、むしろ、すでにあれ程高い水準の文化と技術を持ちながら、それにもかかわらず、あれ程すばやく西欧の文化を消化し、同化することができた・・・ただの『欧化政策』などというものではない、『文明開化』である、と自ら信じ込むことで、危機の脱出に成功したのである。(p64)」
その功労者は「からごころ」であり、その本質は上述のような「逆説」であり、「漢意それ自体が、或は日本文化それ自体が、そういう逆説をなして出来上がっているのである。」と敷衍する。しかしこのことは論証できないのではなかろうか、と小生には思えてならない。氏のいうことは状況証拠すら見出し得ないとさえ思える。
例えば、氏は幕末に西洋と出会った時、高い水準の文化と技術を持っていた、というのだが全面的に正しいとは言えない。軍事技術に関しては明らかに劣っていたことはいくらでも実証できる。しかも軍事技術は周辺の他の分野の技術に支えられなければ成立しない。従って他の分野の技術についても、明らかに劣っていたのである。長州藩などが西欧諸国との戦争に負けたことで、技術の遅れが明白になったからこそ、西欧技術導入に転換していったのである。
政治制度の導入についても、たかが毛唐のものではないか、という軽蔑もなかったと同時に、無視するという氏の言う漢意によってではなく、伊藤博文らが憲法を作った過程を見ても、西洋の制度を深く勉強し、日本に導入できるように翻案したのである。伊藤らは単に政治制度などを洋化することによって、不平等条約を解消しようとしたのではない。
西欧の制度の中にある、日本にとって良きものを取り入れようとしたのである。そして悪しき物は決して入れようとはしなかった。そのことは、氏の言う「無視」とは違うのであろう。誠に不思議に思えるのは、氏はこれらの事情について、小生より遥かに詳しいのに、そのような事実をもって自説を論証しないことである。
そう考えた上で「無視の構造」と言うのは、小生の理解の及ばない考えがあるのだ、としか考えられないのだが、そのことを本書できちんと説明がなされているようには思えないのが不思議ですらある。
さらに日本国憲法について言及すると、「・・・何時かは、この憲法を貫く精神のおぞましさ、或はむしろ、全体を貫く精神のないことのおぞましさが、人の心を蝕み始める時が来る。その時に如何したらよいのか、その時我々は如何生きたらよいのか-我々には全くその備えが出来ていない。(P69)」と言うのはいいのだが、別項で日本国憲法について、意外な考えを述べるので、後述する。
2.大東亜戦争「否定」論
このタイトルが林房雄の大東亜戦争肯定論をもじったのはもちろんである。林が「攘夷と文明開化とは、相反する二つの主義主張ではなく、同じ一つの認識-『東漸する西力』の脅威の認識であった(P163)」と考えていたのは正しいという。
その証拠に「・・・実際には、百年間にわたる文明開化は、やはり百年にわたる『攘夷』の決意に裏打ちされて進んできたので、『インテリ』でない普通の人々はそれを忘れたことはなかった。もっと正確に言えば、日本を取り巻く力と状況とが、片時もそれを忘れることを許されなかったのである。(P165)」から。
氏の言うインテリとは本気で英米協調外交を考えていた、愚かな幣原喜重郎らが代表格であろう。敗戦してインドネシアに残って、独立戦争に参加した名もなき何千の兵士がいた。例えばそのことを以て「普通の人々」は攘夷を忘れなかった、という証拠のひとつに数えればよい。外見的には、文明開化や大正ロマンに酔っていたはずの庶民が、いざとなると、そんな大事業をやってのけたのである。
例えばハリマンの満鉄共同経営を受け入れていれば、英米協調路線を守って、日本は英米との関係が破たんすることなく過ごすことができた、ということは正しかったのかも知れないが「・・・それは余りにも偏狭な「国家主義」である。(P168)」というのである。
「日本は『日本国』という国境を守る為に百年間戦ったわけではない。もしそうであったら、かえって後の世にはその『防衛戦争』たる所以がはっきり見えることになっていたであろうが、この百年の戦いにとって、国境などというものは枝葉末節のことであった。・・・国境が真剣な意味を持つのは、同じ文化圏に属するもの同士の間である。われわれは国境よりももっと切実に大切なもの-われわれの文化圏を脅かされていたのである。(P169)」という氏の見解は林房雄氏と同じである。
実際に、一部の英米協調論者以外のほとんどの日本人は、この見解であった。だから頭山満らをはじめとする日本人は、辛亥革命を支援するなどしていたのである。しかしどうだろうか。大東亜戦争肯定論で敗戦後のアジアで林氏が期待を抱いていたのは、私の記憶違いでなければ、中共であった。
支那は現在では、日本とはあまりに異なる文化の国としての相貌を現し、日本を脅かしている。否。振り返ってみれば支那とは、かなり昔から日本と同じ文化圏に属してはいなかった。日本人の一部には、当時それに気付いていた人物はいたのである。
だが「…『日本論』を聞いていると、まるで日本一国で『文化圏』が出来上がっているような気さえしてくる。けれども、現実にアジアという文化圏が危機に瀕していた当時の日本人には、それが潰れれば、もはや自分達も自分達自身でいられなくなる(p169)」というのだが、小生はいささか違うと考える。
支那や朝鮮がロシアなどに脅かされれば、日本も安全でいられなくなる、というのは文化圏の問題ではなく、地政学上の問題である。日清戦争のときに既に、日本人は支那兵の残虐さに驚き、現代の支那は孔子孟子の支那ではないと悟ったのである。だから支那がロシアに脅かされれば、日本も安全ではない、というのは文化圏の問題ではない。
日本がインパール作戦でインドの独立を助けようとしたが、これはアジアと言う地域から英米を追い出すことによって、ひとまず日本の安全を英米から守ろうとしたのである。インドと日本は同じ文化圏である、という人はなかなかいまい。アジア、と言うのはヨーロッパに対応する地理的概念にしか過ぎないのは明白である。だから英米の植民地が無くなると、支那や朝鮮が日本と対立するのは不思議ではない。
日本が目先の小さな利益に目が曇っていたのと同じく「・・・ナショナリズムに目覚めた中国、朝鮮もまた「大きな敵」よりも目先の敵にこだわりすぎたと評することはできよう。(p171)」というのも、その意味では間違いである。特に支那などは、一種の歴史の法則で、清という王朝が崩壊して、中共と言う次の王朝が成立するまでの混乱期に過ぎなかったが、これは歴史上何度も繰り返された出来事であって、ナショナリズムに目覚めたわけではない。氏のアジアのナショナリズム観は林房雄氏のそれとよく似ているように思われる。。
清朝崩壊後混乱を引き起こした主たる原因は、地方に乱立した軍閥である。一部の学生ら知識人の呼応があったから、ナショナリズムと誤解されたのである。一般民衆は軍閥の搾取の犠牲者であったし、多くの民衆は日本軍さえ支那軍閥の一種と勘違いしていた。「軍閥」たる日本軍が、宣撫工作によって地域に平和をもたらせば、日本軍の占領は歓迎されたのである。
ただし、当時の日本人のほとんどが、支那のナショナリズムの目覚めと解釈したのも事実である。石原莞爾らですら、支那人にまともな国家を運営する能力はない、と言ったが、これも歴史的な一時の混乱を永続的なものと見た近視眼である。だが、現在の支那の統一も永続的ではないのも支那における歴史の法則である。
周辺の夷敵が支那本土に入って来て、混乱に拍車をかけるというのも歴史的法則である。それが、かつてと違い、欧米が加わったと言うことに過ぎない。それ以前との大きな違いは、過去の夷敵と違い、欧米と支那の軍事技術の水準は隔絶したものがあり、いくら経済発展したように見えても、半永久的に追いつくことは出来ない。小生はこの意味では、本質的に中国が欧米と対等の軍事プレーヤーになる日は、何百年経とうと来ない気がする。
軍事技術を支え、さらにそれを支える工業技術のバックグラウンドとなる、教育、組織文化、社会構造、といった根本的なシステムが、欧米と違い過ぎ、それを地道に変革するつもりもなく、外国の工作機械等の道具の使い方を教えてもらって、目先のコピーで済ませているからである。
閑話休題。現に大東亜戦争の結果、アジアは解放されたが、大東亜戦争によってアジアが解放されたとは、言ってはならないと言う「奇妙な論理(P175)」がある。それが、如何に奇妙な論理であるかの例証として「南北戦争」を挙げる。「南北戦争が単に『奴隷解放』という理念をめぐっての争いだったのではなくて、むしろ南北の経済体制の相違に基づく争いだったことは、すでによく知られている。北軍の兵士達が、何で俺達が黒人(ニガー)のために死ななきゃならねェんだと不平たらたらであったことも知られているし(P176)」リンカーンの奴隷解放宣言も、もともとは苦戦する北軍に少しでも内外の同情を得て、戦局を有利にするために行ったものである。
「・・・だからと言って「『奴隷解放宣言』は空疎な茶番であり、『奴隷解放』の理念は好戦的な一部の北部人(ヤンキー)が自らの侵略的意図を覆いかくすため一般市民に押しつけたものである。この美名の名のもとに何万人の若き青年の血が流されたかを思うとき、このような危険な軍国思想は二度と再び許してはならない」などと演説する者は、余程南部(ディープ・)の田舎(サウス)にでも行かなければならないであろう。(P176)」
そして問う。「何故か?-北軍が勝ったからである。戦争に負けたからと言ってその戦争で自らの掲げていた理想の旗までおろしてしまい、自らの成しとげたことに目をつぶってしまうのは、まさに『勝てば官軍』の裏返しに他ならない。そういう人達は、万一勝っていたらばどうやって戦勝国としての責任をとるつもりだったのであろうか?・・・何故もっと歴史と言うものを素直に眺めようとしないのか-『大東亜戦争肯定論』の『肯定』とはそういう意味である。」なるほど、悲惨な戦争はどんなことがあってもしてはならない、と絶叫する現代日本人は、戦争に勝っていれば好戦的な言辞を絶叫する人たちである。
ここまでは納得する。「戦後の日本人が、あの戦争について、非はすべて我方にあると考え、林房雄氏の説くような『あたり前』のことをむしろ奇説とみるようになった」原因を七年の占領と検閲にするのは簡単だが、キリスト教の布教の失敗にみられるように、日本人は本来の在り方を脅かすような思想は絶対に受け入れてこなかったのだという。
だから「『大東亜戦争』のかくも理不尽な断罪が、われわれの『大和魂』を本当に危くするものであったとしたら、マッカーサーが何と言おうとクレムリンがどう言おうと、日本人はすべて聞き流したことだったろう。(P178)」と言うのだが、初めて聞く論理である。だが、不可解にも、倉山満氏との最近の共著「本当は怖ろしい日本国憲法」では、この論理は登場しない。
石原莞爾が「一億総懺悔」と言ったのはもちろん占領軍に阿ったのではなく、「幕末以来この百年間、日本が本来の日本らからぬ振舞を余儀なくされてきたことへの反省である。・・・敵を『敵』と認じて、自らを常にそれと対峙させて眺めるという極めて欧米流の世界観を持つことであった。・・・戦後、危機の去ったのを肌に感じたとき〈もうわれわれらしく生きても大丈夫だ〉と人々は思った。(P180)」のであって石原将軍の真意を理解して心の底に収めた、というのである。
だから日本人本来の「和の世界観」に戻り「われわれは、もう二度と再びあの血腥い『欧米式国際社会』には住むまい。」として戦後は欧米への復讐にではなく「復興」邁進できた、というのである。だがこれらの長谷川氏の考え方には、越えがたいパラドクスが潜んでいるように思われる。
第一に、維新以来欧米流の力による流儀でなく、和の精神で対応したら日本民族は居なくなっていたであろう。そうしなかったからこそ、今和の精神に戻ることができたといういちゃもんをつけることができる。氏は、パラドクスを「からこごろ」という言葉で解消しているのだと思う。
第二に、占領軍の検閲の影響力をきちんと分析したり、大航海時代という欧米による大侵略の理不尽を充分に認識したからこそ、長谷川氏は前述のような結論に至ったのであって、無自覚で無意識でいたら、そのような結論は得られなかったのである。
また不思議に思われるのは、実際に石原莞爾が「一億総懺悔」と言う言葉をそのように考えていた、という論証がなされていないことである。また新聞に「一億総懺悔」という言葉が躍った時、国民がどう考えたか、という論証もしていないことである。ただ「インテリ」ならざる普通の人々は、そう考えていたはずだ、というのであろうか。現在に至るまで、長谷川氏は、これらの立論を修正する必要性を感じていないように思われる。従って、まだ小生には氏の論考を読み解く必要があるのだろう、というのが当面の結論である。
日本国憲法についての論考も同じ論理が貫かれているのは、当然と言えば当然であろう。憲法の前文にいう「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という言葉についての言及である。
多くの保守論者、いや全てと言っていいだろう。この文言は米国が日本を侵略者と決めつけるために、押しつけたものだ、と。ところが氏は、「ここに表されているのは、まさに『和の世界観』である。『国際社会』というものがここでは、他人を思いやり、互いに睦み合うことをその本質とするもの、と考えられている。これは、『東亜百年戦争』を通じて日本がその真只中で生きてきた、あの修羅場のことではない。(P183)」というのだ。
もちろん「敗戦国が戦勝国に対して、二度と再び立ち上がって脅威となることがないように」したというのだが、「・・・そうはさせじと必死で押し返す日本側の人々の血の滲むような努力がようやくこれだけの形に食い止めてくれたのである。」として「日本精神」と矛盾しない「国際社会」という言葉を発明して挿入したことが、その例である、という。
だから、先人のこれらの努力に敬意を払うどころか、努力があったことすら思い出してはならないことになっているのが現状である、というのだ。それは、思い出すことによって「国際社会」という夢を破るのではないかと無意識に恐れているからだ、という。この見て見ぬふりは、国際社会は現実には力の社会であるのに、それに無知なままで渡っていかなければならない、という唯一の深刻な厄介を抱えている、と初めて問題視する。
ところが「目をつぶることによって自分自身であることを守る時代は終わりつつある。(P186)」という平凡な結論に到達する。ひどく婉曲な言い方をしているが、敗戦によって米軍に守られていたから、古来の和の精神にひきこもってもいられたが、冷戦終結以降の国際情勢の変化によって、そうもしていられなくなった、と言っているのに過ぎないのではないのか。
「和の精神」さえ持ち出さなければ、普通の保守論者の言い分と変わらないのである。そして日米安保で国防を忘れて、経済成長だけに邁進したことが日本人本来の「和の精神」であったとすれば、それは土台、国際社会には通用しない、と言っているのに等しい。
そして「・・・戦うために益々われわれ自身ならざることを余儀なくされた百年間」だから大東亜戦争を「否定」することによって、新しく歩み始めることができる、と言っているから、ようやく「否定論」と銘うった理由である、ということが分かった。私は本稿の途中で「否定論」というのは、氏が、負けたからと言って大東亜戦争の理想の旗を降ろすのは、勝てば官軍の裏返しだと論じたとき、大東亜戦争を否定する者に対する揶揄をタイトルにしていると勘違いしていたが、そうではなかったのである。
だが最大の矛盾は、日本人は無意識に肝心なことを忘れ去る、という特技があるといいながら、「目を開けて、自らを知り、しかもなお自分自身であり続けるという難題に、いよいよ本格的に取り組むべき時が来ている。(P186)」と断じていることである。これは単純な小生には、日本人本来の和の精神を捨て去れ、と言っているのに等しいとしか思われない。日本人本来の精神を捨て去れ、というのは、日本人ではなくなれ、と言っているのとはどこが違うのか分からない。結局本稿の難点は「先人の努力」にしても「和の精神」にしても全て、事実による論証がなされていないことである。
3.「国際社会」の国際化のために
イントロから、ある日本人の書いた記事を引用して、日本人は国際化、という言葉をよく使うが、英語にはない意味で言っているらしくて、理解できない、とアメリカの友人に言われた、と書いていることを紹介している。
例によって氏の論理展開はややこしいが、まず第一義的には英語のinternationalizeというのは他動詞で、辞典で引くと「(国、領土等を)二ヶ国以上の共同統治又は保護のもとに置くこと(P195)」とあるという。日本人なら、これは特殊な用法だと思うであろうが、この言葉が十九世紀後半に初めて使われるようになったとき、この意味であったし、主たる用法は今も同じである、というのだから先のアメリカの友人の言うのはもっともである、というしかない。
この違いを氏は「大学の国際化」ということで説明している。「大学を国際化する必要がある」と日本語でいう場合、対象となる大学とはあくまでも日本の大学であって「・・・フランスの大学に対して、もっと日本人スタッフを増やすように要求して「大学を国際化する必要がある」と迫る-そういう言い方は日本語には存在しません。(P193)」と例示しているのはその通りである。「国際化する」という日本語自体は他動詞的に聞こえるが、実は日本人自らだけを国際化する、という自動詞的用法しかないのだそうである。
西洋人の言う国際化、とはいかに苛酷なものであるかを言う。コンゴの国際化の例とは、欧米の複数国の共同統治下に置こう、という意味である。要するに、コンゴがベルギー一国の植民地になりそうな趨勢なので、コンゴと言う地域をベルギーには独占させないようにする、というのが目的なのである。
つまりコンゴをまともな国ではなく、単に植民地としての対象としてしか見ていないから、コンゴをどうするか、と言う場合に、コンゴに住む人々は交渉の対象とはならない。これは、九ヶ国条約で欧米が支那に取った態度とよく似ている。実体として存在もしない「中華民国」というものを勝手に認めて、これを維持すべきだ、というのだが、その結果もたらされたのは、各国に支援された乱立する軍閥による、支那の混乱と支那住民の窮乏である。
さて氏の説明に戻ろう。「・・・当時のコンゴはそんなものだったのではないか、と言う方があるかもしれません。それから百年近く経って独立した後でさえもが、あのていたらくだったのではないか、と。しかし・・・コンゴをはじめとするアフリカの各地域とも、少なくとも十五、六世紀の頃までは、決してそんな風だった訳ではない・・・その形態は近代欧米諸国とは異なれ、さまざまの王国が栄え、すでに高度な文明が各地で発達をとげていた。それを決定的に破壊したのは他ならぬ白人達であります。三百年にわたる奴隷のつみ出しと、それに伴う諸部族の抗争と扇動によって、いわば内と外の両側から、アフリカ大陸の「文明」を崩壊させていった(P199)」というのである。
例えれば、原野を開墾する場合、現に青々と茂っている草木を根こそぎにするようなものだと。だからコンゴの国際化が言われていた1883年には、コンゴには国と称するに足るものがなかったのではなく、なくされていたのだと。
この説明で思い出すのは、テレビで、ユニセフが行っているコマーシャルである。アフリカの栄養失調や病気で死にそうな子供を映して、この子たちをあなたの僅かな寄付で助けましょう、と募金を呼び掛けている。小生はこれを見るたびに不愉快になる。確かにアフリカの子供たちの人道支援は現時点での状況下では、必要であり尊ぶべきことである。
しかし、西洋人が長谷川氏の言うように、健全な王国であったアフリカを三百年に渡って破壊しつくしたから、外部から援助しなければ、子供すら育てられないような状態の地域になったのである。西洋人が来なかったら、アフリカは、子供たちすら自ら育てられないような国々ではなかったのである。それを壊した当の西洋人が作った、ユニセフなる国際団体が助けて、人道支援だと自己満足しているのである。
マッチポンプと喩えることすら許されないような、悲惨な状態を招来したのは、人道支援しようと言った人たちの祖先であり、そのことに人道支援の名のもとに責任を取るには、ことは重大過ぎる。
そして日本人が明治以来大切にしてきた「国際法」の概念のinternationalという国家間の範囲とは18世紀までは「ヨーロッパ」でしかなかった。(P203)」それが1856年のパリ条約においてトルコが、はじめて非ヨーロッパとして国際法の世界に参加した。トルコの参加は「ヨーロッパ公法と協調の利益への参加」と言われたが、実態はクリミヤ戦争の戦費の負債への返済の約束であり、19世紀末にはトルコは一切の財産権を英仏に握られてしまった、というのである。(P213)
そのために、かのケマル・パシャが近代化改革を行ったのだが、カリフ制廃止や、イスラム聖法を無効とすることを始めとする、大胆な西欧化政策であった。それは国際社会の侵入という苛酷な強制力による「悲しい大偉業」だったというのであるが、何やら維新の日本を思い出させるものではある。明治維新は、国民国家の形成の過程、すなわち西欧化の過程としては、世界的にも例外的に平和的に行われた。
だが、結局は西欧化でしかなかった。日本が失ったものは大きかったのではないか。例えば、現代で日本らしいもの、と言えば歌舞伎などの伝統芸能や寿司、城郭といったものが挙げられる。しかし、これらは全て江戸時代に完成したものの継承でしかない。つまり、維新以降、日本らしい、と言うことができる文化的遺産と言うものはないのではないか。
確かに軍艦島や富岡製糸場などのように世界遺産として登録された、維新以後のものはある。しかし、それらは全て西欧文化を日本的にこなしただけで、日本の独自性に至っていない。アニメにしても、まだまだ前途は遠い。
閑話休題。前述のように、国際法はスタートからヨーロッパ限定で、トルコの改革もある意味、それに合わせるために行われたものである。だが「本来『国際法』というものは、そこに参加するすべての国々の慣習や文化を考慮し、その社会を損なう恐れのないものでなければなりません。したがって、理想を言うならば、国際社会が一人新しいメンバーを迎え入れるたびに、国際法体系の全般的に渡っての再調整が必要となる(P218)」のだが、そこまでとは言わなくても、多くの新興国が参入してきたのだから、「劇的な変更・調整が必要となる」と言う。
しかし先進国側はこれを拒否している、というのである。もちろん、語義だけ論理的に抽象化していけば正論である。ヨーロッパ側が拒否する理由は、国際法のごく初期の学者の説く「普遍」という考え方である、というのである。つまり国際法は普遍的原理を基にしているから、地域も民族も文化も異なっても通用するはずだ、ということである。
なるほどそういう理屈もあるものだ、とは思わせる。だが例えば西洋人が言う「交通の権利や通商の権利」という言葉からして、西洋人のように、大洋を渡る交通手段を持ち、自分達本来の土地以外の土地を求めて、世界を荒らし回る人たちと、そんな手段も必要も感じない非西洋人たちにとって「普遍」の原理ではない(P225)のである。つまり、西洋人たちは、他民族が住んでいる地域であろうと、世界を勝手に通行し、他民族のものを好き勝手に手に入れる権利がある、ということの美しい表現なのである。結局普遍と言う言葉で自分たちの都合を押しつけているのに過ぎない、というのであるが、この例に関してはその通りである。
これを解決するのに参考となるのが、日本人の言う「国際化」なのだというから、またまた、面倒である。日本人は西欧と言う国際社会の外にいて、自分たちの社会が狭いと考えることによって、国際社会の本質的な狭さから目をそむけて、それに合わせようとしている(P230)という。しかし国際化ということを、「・・・ただもっぱら既存の『国際社会』の先住者達に従うものであることを止めて、本当に、すべてのあらゆる民族、国家に向けられるようになる時、それは『新しい原理』となりうるのです。(P230)」というのだ。
だが結局これは前述の「国際社会が一人新しいメンバーを迎え入れるたびに、国際法体系の全般的に渡っての再調整が必要となる」ということと同じことではなかろうか。だが日本流の国際化、という考え方を西洋人自身はもちろん、発展途上国自身ですら受け入れることは困難であろう、と思うのである。日本にだけ、西洋人が考えられない「国際化」という観念が存在するのだから。
結論として書かれている、国際化が日本だけのものではあってはならず「・・・『国際的標語』として-国際社会それ自体の国際化として-叫ばれ、高々と掲げられなければならない(P235)」というのは正しい。しかし、これを世界に広めよう、というのは前述のように、原理的にとてつもなく困難なことであろう。
確かに観念的に考えれば、今の国際法や国際社会なるものが、西欧中心の限定的な考え方であろう。しかし、長谷川氏が例証している、大航海時代の理不尽な西欧の論理の押し付けによる国際法と、現状における国際法の適用状況は、かなり状況が異なっているように思われる。つまり、氏は自分の論理に合わせて、現在起きてもいない論証に都合のよい、過去の事例を挙げているように思われる。元々国際法が西欧世界以外に適用され始めた時は、自己都合としか考えられない場合ばかりだから、今でも根本にそのような危険をはらんでいる、と言える。だが、相対的にその問題は減少しているのではないか。
実際に現代の領土問題などを個別に考えると、中国や韓国が実際に国際法を無視して行っている事例を考えると、中国や韓国の国際法へのきちんとした参加をさせるために、彼らの異質な文化などを考慮する余地は少ないと思われるのである。つまり、かつての傍若無人な西欧に比べれば、現在の国際法には確かに「普遍」を主張できる部分は多く存在するようになった。
例えば、竹島や尖閣について、せめて既存の国際法に従わせることができれば、日本の正当な権利は得られる、という点に限ってみれば、国際法は西欧のみならず、日中韓にも普遍性を持つのである。日本は狭い国際社会から目を閉ざしているから、領土問題を国際法に則って解決すべきと言っているのではない。その逆である。氏は「目をそむける」という日本人の特性を「からごころ」と同じ文脈で使っているが、実証的ではなく観念的なために、論理が強引に思える部分が見え隠れしていると思う。