未完のファシズム・片山杜秀
昭和の陸軍軍人たちは必ずしも今考えられているように、武器の質や量より精神主義を重視したわけではない、ということを立証している、という書評につられて読んだが、期待は裏切られなかった。
第一次大戦の青島攻略は一般に、弱い防備のドイツ軍に勝った、と信じられているが、そう単純ではないというのである。(P52)そして指揮官の神尾将軍は、「慎重将軍」と呼ばれ、弱敵の攻略に時間をかけ過ぎたと言われるが、そのゆえんは、総攻撃前に徹底的に砲撃し、ほとんどかたをつけてから歩兵を突入させる、という近代戦を先取りする攻撃をしてみせた、というのである。
その反対に第一次大戦前の独仏両軍、特にフランス軍に甚だしかったのが、歩兵による突撃主義であった。(P86)その原因は何と日露戦争での日本軍の戦い方であった。つまり日本軍歩兵の勇敢な肉弾攻撃に幻惑されたというのである。その逆に第一次大戦を観察した日本軍参謀本部はその戦訓として書いた書物で、「火力対肉弾の戦法は、今日より見る時は其不合理なること、敢て喋々を要せずと雖、大戦前に於ては之を不合理と認めざりき」(P87・カタカナを平仮名に変換)と断じているほどの合理的精神であった。
そしてこの精神は本質的には昭和の陸軍にも共有されていた、というのである。著者は、この事実を認めた上で、その対応は3派に分かれたいったと分析しているようである。その3派に共通する認識は、青島攻略は小規模な戦闘であったから充分な大砲と弾丸を存分に使えたのであって、ソ連や欧米のように圧倒的な国力差がある国との戦いには通用しない、ということである。この点でも日本陸軍は今考えられているような不合理な夜郎自大な軍隊ではなかったのである。
そこで第一のパターンの典型は小畑敏四郎らの皇道派である。小畑は表向きは、即戦即決で小兵力でドイツ軍が勝った、タンネンベルグの戦いを範として、外交など顧慮せずに将帥の独断専行によって短期戦で勝つべきである、と主張し(P123)がこれが「統帥綱領」となった。ところが小畑ら皇道派の本音は、「持たざる国」日本は、精神力と奇策で勝てる弱い敵としか戦うべきではない、というのであった(P140)。さらに「勝てる筈のない米国に宣戦布告するなど、小畑将軍の眼から見れば、まさに「狂気の沙汰」であった(P151)。
第二の主張は石原莞爾その人である。石原は有名な「世界最終論」を講演した(P193)。実は戦争は第一次大戦に見られるように、軍需産業ばかりではなく民間の経済力や生産力がいざ戦争という時には、軍事力に転換する。だから日本自体が持たざる国から持てる国に進歩しなければならない。それには数十年の時間がかかり、その基礎は満洲にある、というので満洲事変を起こしたと言うのである。小畑らの合理性は、日本が経済発展しているのならその間に「持てる国」も経済発展するから追いつけない、と考えた所にもある。(P250)これに対して石原は持てる国にしようと言うのである。
第三が中柴末純というあまり有名ではない軍人である(P247)。陸士出身の工兵出身者である。第一次大戦の観察から、近代戦は物量戦であると書いた本を出版している理性がある(P248)ところが中柴は、小畑も石原も、戦いを選んだり、国策に口をはさんだりする思想の人物で「政治に容喙するとは、天皇大権を干犯し、国体を破壊し、軍人の本分を滅却する」者たちで断じて許されない、と考えるのである(P251)。これは正論であろう。軍人が政治に干渉するのを反対すると言う点で、シビリアンコントロールに近いとも言える。軍事の輔弼は軍部が行い、政治の輔弼は政治家が行うのである。
総力戦を知りぬいているにも拘わらず、中柴は、結局戦えと命じられれば、今の兵力で戦わなければならない、として精神力を最大限に発揮すべきである、という結論に至る。その思想は仔細に論じられているがここでは省略する。結局は全滅するまで戦う、つまり玉砕の思想に到達した。
しかし、著者はアッツ島などで現実に日米戦で玉砕が行われたとき「本当におののいてしまったのは・・・中柴本人だったのでしょう」(P293)。と書くのは中柴の合理的精神を理解しているからであろう。ただし、中柴が戦陣訓作成にかかわったことを持って日本兵が玉砕していった(P276)と書くのはどうだろうか。玉砕は戦陣訓のゆえんではない。紙に書かれたもので人が死ぬと考えるのは浅薄である。日本兵が国を故郷を家族を思い、火器兵力の圧倒的な差の中で必死に闘った敢闘の結果が玉砕である。また、別項でも述べたが米軍、特に海兵隊は日本兵の捕虜をとるのを嫌い、傷病兵を殺戮した結果も玉砕を生んだ。いくら銃弾の雨の中を突撃しても、多くの兵士は怪我をおい人事不省に陥ったはずである。九分九厘の兵士が死亡するはずはないのである。米兵は、死体の山の中で生存していた日本兵にとどめを刺していったのである。
あらゆる日本の矛盾を承知で戦い、戦死した象徴が東條英機であり、大西瀧治郎である。もちろんそのもとには、数百万の素晴らしい日本人が闘っていた。曾祖父母、祖父母、父母の時代の日本人は、世界史に冠たる人たちであった。その意味で私は東條英機を昭和史で、昭和天皇に次いで尊敬する人物と言うことを躊躇しない。東條英機を単なる思想なき優良な官僚という歴史家の気が知れない。小生は、東條英機の百分の一の見識と胆力を持たない人間であることを百も承知しているからである。
戦前戦中の陸軍軍人が、軍事的合理性を百も承知の上で、精神主義を鼓吹しなければならなかった苦衷を詳述した好著である。戦前戦中の日本人の置かれた世界に冠たる、孤独な地位も証明している。