隅田川左岸の遊歩道、丁度牛嶋神社の南の外れ当たりに、一連の碑が置かれている、その碑の由来が時によって変遷するのを見るのは、人の世の常とは言え、辛いものがある。まずは「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」である。
これが正面である。次が背面である。
隣に比較的新しい由来が、現代文で書かれている。それを見よう。
この由来は、碑文を要約したものだが、大切なことが抜け落ちている。それは、明治天皇がここに玉座をしつらえて、漕艇を見た所以である。明治天皇は単にボートレースを見学したのではない。海軍の軍人が訓練の一環として、漕艇競争をしているのをまじかに見て、励ましたのである。この説明は戦後の常として、このような軍事的側面がすっぽり抜け落ちている。もちろん隅田川レガッタのはしりともいえるのではあるが。
次は同じ場所に最近新しく建てられた記念碑である。
隅田川ボート記念碑建設委員会なるものが建てた、記念碑である。明治以来と書かれてはいるものの、玉座の場所であったことはおろか、海軍の訓練場所であったことは微塵も触れられてはいない。そうであろう。委員長は東大ボート部OBの半藤一利氏なのである。この記念碑は、学生ボート競技の記念碑なのである。次の写真には、読みにくいが明治以来、現代にいたるまでの、隅田川のボート競技の歴史がつづられている。しかし、明治天皇が玉座を4回も置かれたことは省かれ、昭和16年には玉座の記念碑が設置されてことも書かれていない。否。無視したのである。
次に奇妙な破壊された碑があるのを紹介する。昭和16年11月とある日付は、明治天皇の玉座の記念碑が建てられた日付である。ところが、左のタイトルが、ノミか何かで見事に削られている。隠ぺいしたのである。目を凝らして跡をたどると「隅田川聖蹟顕彰會」となんとか読める。つまり本来は最初に紹介した「玉座の記念碑」とペアになるはずである。その痕跡を破壊しようとしたのである。
これが全景であるが、何と二本の支柱が錆びたボルトで結合されている、という無残なものである。次に背面を見よう。
四文字が書かれているが、破壊されて判読できない。ところが左の小さな文字は破壊されていなかったから、判読できたのである。曰く。
隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書
とある。想像するに、GHQあたりの眼を恐れて、この碑を破壊しかけたのである。しかも、元々は最初の玉座記念碑とペアであったのであろう。それが、海軍中将の名前があった故に、泣き別れさせられたのである。想像するに、と言ったが、東京都内の神社には、たまに昔彫られていたものをノミで破壊した形跡のあるのを見ることがある。大抵は揮毫したのが軍人なのであろう。勝てば官軍負ければ賊軍、日本人の心の退廃の象徴のひとつであろうと、長々と紹介した次第である。以上のように、玉座阯と有馬中将による碑が分離せられた経緯を知る方は、教えていただければ幸甚である。
小生思うに、明治天皇が海軍の漕艇競争を天覧されたのは、日々お国のために訓練する軍人の努力を励ますと言う意味があったはず。そのことは、天皇時代の現上皇陛下が東日本の震災のお見舞いにいかれたり、南方の戦地に追悼の行脚をしたことと通底するものと考える。震災へのお見舞いを称揚する一方で、天覧の碑の一部を損壊するという行為に出たのを見ると、日本人もさもしい人も出るようになったものだと、嘆かわしい思いがする。
ので、百済発祥の天皇家には疑問を感じています。今でも近代天皇は韓国神社にはお詣りに行かれますが靖国さんには絶対に行きません。
どうお考えでしょうか。
ちなみに北一輝は国家改造法案大綱と記憶しますが、「国民の天皇」と記していますが、これは国民の恣意で天皇の地位はどうとでもできると解釈できると考えます。また私有財産を一定限度に制限する、という思想は、共産主義を合理的に存続させるものだと考えます。従って北一輝は右翼の皮をかぶった、共産主義者であって、皇室とは相いれない人物と考えます。
皇室の発祥には諸説ありますが、いずれも皇室は日本人あったというものと考えます。いずれにしても日本は皇室無くして存在すべきものではないと信じます。これは信念です。
当家は親の代から皇室中心主義で小生も平成天皇とは宮殿で拝謁し、愚息も現天皇とは握手までしております。が、誤りを正すことに憚ることなかれの言葉どおり今は皇室こそ諸悪の根源と固く信じております。
和して同せず、今後ともご教示よろしくお願いいたします。
国を貶める発言の多い男です
なぜあんなに日本を貶めるような思想になったのか不思議でなりません。小生、先の本は別として、半藤一利と保坂正康の名前の付いただけでその本は読む価値無しと判断しております。