毎日のできごとの反省

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伝統芸能の保護の難しさ

2020-04-04 19:44:33 | 芸術

 旧聞に属するが、当時の大阪市の橋下市長が文楽への補助金を打ち切ると言いだして、伝統芸能の保護の在り方が問題にされたことがあった。伝統芸能を含めた芸術の保護には二種類がある。ひとつはクラシック音楽や古典的絵画のように、評価がおおむね確定した芸術作品に対して、今後も存在させるようにすることである。音楽や演劇の範疇に属する芸術は、それを維持するためには、再現する技能者が必要である、という困難さがある。これに対して絵画や彫刻のような視覚芸術は、作品は既に出来上がったものであるから、これを維持するには、保管の方法を考えればいいから数段楽であると言えよう。

 評価が確定しているものとは、実は芸術としての形式が完成し、しかも作品としても今後同じ形式で新しい作品が生み出されることが無いものである。文楽にしても歌舞伎にしても、西欧のクラシック音楽にしても、そのジャンルに属する作品は数さえほぼ確定していて今後新しい作品が全く同じ形式で生み出されることは、例外的にしかないのである。逆に言えば、伝統芸能は現代の映画のように大衆が娯楽として対価を支払って鑑賞しにくる、と言う事が少ないから、再現する技能者が生活を維持する手段が無い、つまり収入が得られないと言う事である。そこに伝統芸能の保護の必要性がある。補助金を大阪市が支払わなければ文楽はなくなってしまう可能性が大きいのである。

 現在に生きている形式の芸術とは、大衆など芸術を享受する者たちによって鑑賞の対価が支払われるから、古典的芸術のように保護する必要が無い。その代わり現代に生きて新しい作品を生みださなければならない。しかし評価が確定していないが故に、色々な妨害がなされることがあろう。チャタレー裁判などはその口で、芸術家かわいせつかなどと言う語義矛盾のような公権力の言いがかりで出版が妨害されようとした。これに対して守るのがもうひとつの保護である。従って本稿は、第一のものを論ずることになる。

 論旨は違うが、産経新聞平成二十四年九月七日の一面に、芸術の保護に関する当時の橋下市長の寄稿がある。橋下大阪市長が文楽協会への補助金凍結について曽根崎心中を見て「演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「演出を現代風にアレンジしろ」「人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」と言ったと言う。

 私はこの意見に到底賛成できない。文楽は当時の最新のテクノロジーの範囲で作られた人形劇の一種である。そしてその範囲で完成されたものである。当時の大衆はそれを楽しんだのであり、ビアズリーの作品がモノクロの線描しかできない当時の印刷技術の制限の中で完成されたものであり、それゆえに独特の表現となっていて価値も高い。従って今の技術を使って合理化するとすれば、それはもはや文楽ではなくなるのである。極限を言えばロボットやCGを使え人形遣いはいらない。たがあのように人間の顔を誇張する必要性も無くなる。だから表現手法が不自由な故にある味わいもなくなる。

 歌舞伎でも同様であろうが、視覚芸術であっても、作品の形式に慣れなければその作品を理解できない。英語の詩だと英語が分からなければ面白さを理解できないように、文楽の形式を理解できなければ、実際には文楽の面白さを享受できないのである。橋下氏は普段からみているテレビドラマのせいぜい時代劇の感覚で見ているのであろう。曽根崎心中のストーリーを使って時代劇映画を作るのは可能であろう。究極的には橋下氏の言うのはそうせよ、と言っているのに等しい。

 文楽と言う芸術はもはや新作を作ることも技術的改良を加えることもできない、現代には芸術の形式としては生きていないのである。これは芸術の形式が完成したからである。従って余程の好事家以外は対価を支払って作品を鑑賞しようとはしない。つまり何らかの形で保護しなければ現代には存在しえない芸術である。いわば絶滅危惧種である。それを保護すべきか否かは本稿が論ずるつもりはない。失礼な仮定ながら、文楽協会の運営に問題があって補助金が無駄遣いされていることについて、橋下市長が問題にして補助金を打ち切ろうとしているのなら正しいのであろうが、批判は芸術の形式だけにしか言及されていないのだから、やはり見当違いの補助金打ち切りの理由としか考えられない。

同じ古典芸能と言っても落語にはこのような問題が比較的少ないようである。その理由は落語が新作と古典の二分野を持つことが出来ている事にあるように思われる。落語は江戸時代からの伝統芸能でありながら、現代の世相を表現する新作落語を作ることができる。従って興行収入的な面では新作に負うことができる。

しかも新作と古典の違いは、作品の時代背景が、現代か江戸時代かが主なものであろう。だから新作落語への理解は同時に古典への入り口ともなる。しかも現代の日本語の標準語が落語から作られたと言われるように、時代の相違に比べ言語の相違が少ない。古典落語とはいっても時代背景が異なるだけで言葉の理解に決定的な不自由はないのである。日本人が時代劇を楽しむことができるのなら、古典落語も理解困難ではなくストーリー自体も楽しむことができる。

このような例は文楽や歌舞伎などの日本の古典芸能に比べると稀有な例と言える。西欧のクラシック音楽に比べても同様であろう。クラシックを演奏するオーケストラを使って、映画音楽が演奏されることがある。これは新作である。だが同じくオーケストラを使っているというのが共通するだけで、ベートーベンなどの音楽とは別なジャンルには違いない。もちろんこれはどちらが高級か、という価値判断を言っているのではない。しかしこれによってもオーケストラを維持するだけの安定的な収入を得ることは困難である。

そもそもクラシック音楽を演奏するために高度な技術の獲得をを要する割に演奏家の収入の道は少ない。クラシック音楽の固定的ファンは多いが、それでも講演収入でオーケストラを維持する事ができるのは、メジャーな楽団だけであろう。

 

 



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