大東亜戦争の緒戦、日本の空母部隊が、ハワイ、インド洋で我がもの顔に行動していた時、日本側に大した実力ではないと見下されていた米海軍は、手を咥えて見ていたわけではなく、日本海軍の隙をついて、神出鬼没のゲリラ戦法で戦果を挙げていた。そのことが以前紹介した「凡将」山本五十六に書かれている。(P107)長くなるが引用しよう。
昭和17年のことである。二月一日早朝、日本防衛戦最東端のマーシャル諸島が、米空母エンタープライズとヨークタウンの艦載機に猛烈な空襲をうけた。さらに、同部隊の重巡洋艦は、艦砲射撃まで加えてきた。・・・司令部はクェゼリン島にあったが、この奇襲によって大損害を受け、司令官八代祐吉少将も戦死した。
二月二十日には、空母レキシントン、重巡四、駆逐艦十の機動部隊が南東方面最大のラバウルに空襲をしかけてきた。ラバウルからは、中攻十七機がこれらの攻撃に向かった。しかし、敵の対空兵器と戦闘機のために十五機が撃墜され・・・大損害を受けたのである。わが中攻隊には護衛戦闘機が一機もついていなかったのがその最大の原因であった。
二月二十四日には、空母エンタープライズ、重巡二、駆逐艦六の機動部隊が、昨年末に占領したウェーク島を、これ見よがしに襲撃してきた。艦載機による空襲と重巡による艦砲射撃であった。
超えて三月四日には、同じくエンタープライズの機動部隊が、傍若無人に南鳥島にも空襲をしかけてきて、日本側に相当な損害を与えた。
三月十日には、空母レキシントンとヨークタウンの機動部隊が、ニューギニア東岸のラエ、サラモア沖の日本艦船に、約六十機で空襲をしかけてきた。軽巡夕張が小破し、輸送船四隻が沈没、七隻が中小破という大損害を受けた。
千早正隆は、その著「連合艦隊始末記」・・・で、米機動部隊について、次のように書いている。
-アメリカが守勢の立場にありながら局所的に攻撃を取る積極性、その反応の早さ、その作戦周期の短さ、その行動半径の大きさ等については、何らの注目の目を向けなかった。それらについて、真剣な研究をしたあともなかった。
ただこれら一連のアメリカの空母の動きから、日本海軍の作戦当局が引き出した一つの結論は、首都東京に対する母艦からの空襲の可能性が少なくないということであった・・・
本来ならば、南雲機動部隊がこれらの宿敵をどこかの海面に誘い出して撃滅すべきであった。その最も重要な目標に向かわず、やらずもがなの南方のザコ狩り作戦に出かけて、長期間精力を使い減らしていたのである。
というようなものである。千早の言うザコ狩りとは、昭和十七年早々に南雲部隊がラバウル、インド洋などに出かけて長躯小敵を求めて航走し、大した戦果のない割に将兵を無駄に疲れさせたことである。日本海軍は緒戦の勝利に驕慢し、強敵米国と戦っていることを忘れていて開戦時の緊張感を失っていたのは、多くの識者の指摘する所である。また、千早氏の指摘もどうかと思う。結局艦隊を動かすのは、作戦目的を果たすためであって、敵艦の撃滅は作戦目的の手段である。「南雲機動部隊がこれらの宿敵をどこかの海面に誘い出して撃滅すべき」というのは艦隊撃滅自体が目的化していることを明示している。千早に限らず、常に日本海軍の首脳の考えは、日本海海戦のように敵艦を撃滅することが、作戦の目的であった。
だがマリアナ沖で日本空母と艦上機を殲滅したのは、マリアナ諸島を攻略し、B-29による本土攻撃の基地を得るためであった。B-29の基地は、本土空襲を行い日本を屈伏させるためであった。事実上連合艦隊が撃滅されたフィリピン沖海戦も、フィリピン攻略のために生起したものである。
千早氏の考えは、主力艦が戦艦から空母に切り替わっただけで、作戦目的が艦隊決戦であることに変わりはない。日本海軍は空母による東京空襲を恐れたと言うが、これは生出氏が言う山本五十六の世論恐怖症である。なぜなら、この時点で空母による散発的な空襲を受けても、ドーリットルの東京初空襲と同じで、戦術的な効果は皆無であり、心理的なものであった。日本海軍がゲリラ的な米機動部隊による攻撃から、米空母による東京空襲しか想起しなかったというのは、かくのごとく意味を為さないものだったのである。
それより、米軍がこの間に米軍が動員したのは、エンタープライズ、ヨークタウン、レキシントンというわずか三隻であり、一度に最大二隻しか動員しない、という小規模なものであった。米軍は、日本軍の兵力が圧倒的である際には、敵の防備の薄い所を衝いて、散発的にゲリラ的な攻撃を仕掛けて戦果を挙げたことに注目する。日本が敗色濃厚になった際にも、艦隊は大規模な敵の正面からの攻撃しかせずに、殲滅されていったのとは異なる。