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愛について恥ずかしながら考えてみた
筆者-初出●Townmemory -(2009/08/11(Tue) 06:02:30)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=30708&no=0 (ミラー)
[Ep4当時に執筆されました]
●再掲にあたっての筆者注
ベアトリーチェ観について情緒的につづったエッセイです。
ep5の公開前に、なにかまとまったことを書きたいな、と思って、何気なくキーボードに向かったら、こんなのが出てきました。
以下が本文です。
☆
大上段に、「愛について」なんて語るのは大変気恥ずかしいです。でも、どうもそれは避けて通れないようなので、一席おつきあい願います。
ひょっとして、真里亞は小学校のクラスで無視をされていたのだろうか。そこまでのいじめには逢ってなかっただろうか、ということを考えています。
いわゆる、シカトというやつ。
誰がいつ思いついたのだか知らないが、あれは、いじめの手法としては人類史上最悪といっていいと思います。
話しかけても、
誰にも聞こえない。
触れても、
反応してくれない。
周りのすべての人間が、
とにかく、
自分を知覚してくれない。
そのように振る舞う。
それは、一言でいえば、こういうこと。
「おまえなんか、ここにいない」
存在の否定。
これって、結託して、本気でやられると、幼少期の自我に本格的なダメージとなります。
本当に、自分は存在していないんじゃないかと思いこむ場合もありうる。
だって、それはそうで。
私たちは、見て、触れることができるから、ここに携帯があるとか、パソコンがあるとかいうことがわかる。
もし、幽霊みたいに透過してしまうなら、そこに確かに「もの」があるとは確かめられないでしょう。
幽霊みたいに。
そう。
もし、あなたの手が、幽霊みたいに、ものをすりぬけてしまうのだとしたら、ここに確かに「私がいる」とも、確かめられないんじゃないでしょうか。
コンビニで、返事をしないレジ店員にあったこと、ありませんか。
「あたためてください」とか「領収書ください」って、言ったつもりだったのに、返事がない。
不安になりませんか。
聞こえているのかな?
聞こえてないのかな?
自分は、「あたためてください」って言ったつもりだけれど、本当に言っただろうか。
言ったつもりになっただけ?
私が、発したと思ったコトバは、この世にちゃんと「存在した」だろうか。
人間の、自己認識というか、自我というか、「私がここにいるという感覚」は、体の中にあるのではなくて、ものと自分との間、人と自分との関係性の中にあるんです。
だから、それを悪用すれば……。
おまえなんか見えない。
おまえなんか聞こえない
そう決めて、そのように振る舞うことで、ひとりの人間の、存在を消去することすらできる。
おまえなんか見えない。
それは、「愛」の対極にある行為です。
*
ならば、
愛とは「見ること」。
そういえるんじゃないだろうか。
愛するとは、存在を認めること。
「あなたはここにいる」と言うこと。
あなたはここにいるし、
そして、あなたはここにいていいのだ。
あなたは私のそばに間違いなくいるし、
私のそばにずっといていい。
私はあなたを見ている。
私はあなたを知覚し、認識している。
そしてあなたを理解したいと思う。
私は、あなたがここに間違いなくいて、
日々の暮らしをしていることを、
いつでもいかなるときでも、ずっと確かめ続け、感じ続けていたい。
それが、「愛する」ということの、正体なのじゃないのか。
だとしたら。
愛とは視ること。
愛がなければ、存在はない。
愛がなければ、いない。
魔女ベアトリーチェは、「世界を構成する一なる元素は愛だ」と言いました。
世界があなたの存在を認めなければ、あなたは存在しない。
あなたが存在しないのなら、あなたも世界が存在することを認めることができない。よって、世界もまた存在しない。
存在を認めることを「愛」と呼ぶのなら、そう。あなたが世界を認め、世界があなたを認めることで、初めて「世界」は構成される。「世界を構成する一なる元素は愛」。
そして、人生には時として、たったひとりの人間が「世界」を代表してしまうことがある。
それは、紗音にとっての譲治であったり、
ベアトリーチェにとっての、真里亞であったり、
真里亞にとっての、ママだったりするのでしょう。
紗音にとっては、譲治に愛されることは、世界から愛されるのと同じこと。
紗音にとっては、譲治から愛されなくなることは、世界から「おまえはいらない」と言われるのと同じことです。きっと。
*
ところで。
サンタクロースのお話をしたいのです。
ep3で、ベルン、ラムダ、ベアトリーチェの3人が、とても象徴的な話をしていました。
ラムダデルタが、「サンタクロースはいないのよ!」という意味のことを言い、ベルンカステルとベアトリーチェは「何と、ラムダデルタ卿のところにはサンタクロースは来てくれなかったのか、かわいそうに」とやり返す。
さて、サンタクロースは、いるのかいないのか。
「サンタクロースはいる!」
と、あなたは赤字で言えますか。
「サンタクロースはいない!」
と、あなたは赤字で言えますか。
いま、どっちかを選んだ人でも、一瞬、「うっ」という、ためらいがあったんじゃないでしょうか。
だって、そんなの、サンタクロースの定義によりますよね。
トナカイびきの空飛ぶソリに乗って、北極圏からやってくる、赤い服と白いおひげのおじいちゃん。
そういう人物が、存在していないということは、これは常識で考えて、言えるでしょう。
でも、クリスマスの朝、子供の枕元には、プレゼントが置いてあります。
そんなことをするのはサンタクロースです。
だから、サンタクロースはいると言えます。だって明確な証拠がある。
ラムダデルタは、前者のサンタクロースについて語り、ベルンカステルは後者のサンタクロースについて語っているのですね。
幻想存在としてのサンタクロースおじいちゃん。これを念頭に置くとき、
「サンタクロースは存在しない」
が正しいでしょう。
でも、枕元に愛のこもったプレゼントが置かれる「サンタクロース現象」、これを念頭に置くとき、
「サンタクロースは存在する」
が正しいはずです。
だから、問いの正しい答え方はこうです。
「サンタクロースがいるかいないかは、その定義による」
そして、定義によるということは、
「場合によっては、サンタクロースが存在する、が真実である」
ということです。
このことが、「魔法」のすべてなんだ。そう思うのです。
現象としてのサンタクロースは、間違いなく存在する。
そして、「現象サンタクロース」と、「幻想存在サンタクロース」を、意図的に重ね合わせて、同一視することによって、「幻想存在サンタクロース」はほとんど存在しているも同然になる。
赤い服と白いおひげのおじいちゃんは、その同一視……つまり「見ること」によって、実在させることができるのです。
愛とは存在を認めること。
愛のない行為によって、そこにいる人間を、存在しなくさせることができます。
でも、そのかわり、愛によって、存在しない人物を、存在させることができるのです。
今年一年、ボクはいい子にしていました。そのことを認めて下さい。認めてくれるなら、その証拠として、ごほうびに、素敵なおもちゃを下さい。
それって、子供と、世界との、相互の確認作業なんです。
ボクは見守られている。そして、「認められている」。
おもちゃは単なるおもちゃではなく、世界から祝福されている、愛されているあかしなんです。
今年一年、ボクはいい子にしていました。そのことを認めてほしい。それを認めてくれた証拠として、素敵なおもちゃをもらいたい。
だから、サンタクロースは本当にいてほしい。
その「願い」を前にして、
特殊能力を持ったサンタクロースという特定の人物がいないという物理的な事実を理由として、
「サンタクロースなんかいない」
という人がいたとしたら、それは、なんという、愛のない言葉だろうと思う。
ママが帰ってこなくてさみしい。けれど、ママが作ってくれたライオンのぬいぐるみがいつもそばにいてくれる。
この子とお話ができたら、きっとさみしくないよ。だから、さくたろには喋れてほしい。動いて、遊んでほしい。お友達になってほしい。
そんな「願い」を前にして、
さくたろうが、物理的には単なる布とパンヤの塊であることを理由にして、
「こんなものただの人形よ、喋らないし動かない!」
と誰かが言ったとしたら、それはなんという、愛のない発言でしょう。
*
「うみねこのなく頃に」には、相手を認める、承認すること、
または、
承認しないことによって存在を認めないこと、
そういう展開が数多くちりばめられている、と思うのです。
「私はもう家具じゃない」という紗音は、
自分はもう必要ないときには無視される存在ではない。私はここに確かにいるし、ここにいていいんだ。そういう承認を受けた少女の、歓喜のことばだと理解できます。
「嘉音くんは家具なんかじゃない、人間だよ」という言葉は、
私はあなたを見る。私はあなたが確かにここにいることを認める。あなたは無視できるような空虚な存在じゃない。あなたにここにいて欲しい。
そんな「愛」のことばだと思うのです。
「あなたなんか、知らない」は、愛の正反対の言葉です。
あなたの存在を、もう認めてあげない。私にとって、あなたはもう、いないのと同じ。あなたが何を叫ぼうとも私は聞く耳を持たない。あなたとは何の関わりもなく、私の世界は続いていくだろう。
「俺は絶対に魔女を認めねえ」
おまえなんか、存在しない。
そこでベアトリーチェの話をしたいのです。
ベアトリーチェは、誰ひとりとして魔法を認めようとしない世界の孤独な魔女です。
誰ひとり、魔法があるなんて信じてない。
誰ひとり、魔女だなんて思ってくれない。
それって、
声をかけても、聞こえない。
自分の姿が、誰にも見えない。
自分の姿を、誰も見てくれない。
それと同じような気がするのです。
ベアトリーチェは上から目線で、妾を否定できるものならしてみるがよい、絶対に妾の存在を認めさせてやろう、と言っていますが、
それは裏をかえせば、
私がここにいることを、誰かに認めてほしい。
私を無視しないでほしい。
私の声を聞いてほしい。
いま、ベアトリーチェを想定して、このようなことを言っていますが、
それは「ベアトリーチェに扮している中の人」にとっても、同じなのかもしれません。
私はここに、この世界に生きていていいのだと、誰かに承認してもらいたい。
世界から、あなたは意味があってここにいるのだと祝福されたい。
世界をひとりで代表するような誰かから、
おまえは間違いなくここにいるし、
ずっとここにいていいのだよ、と、言ってもらいたい。
私は、「魔女」でありたい。
だから、君は魔女だよと、誰かに認めてもらいたい。
誰かを見てあげ、声を聞いてあげ、自分が確かにここにいるということを承認してあげることを「愛」と呼ぶのだとしたら、
彼女は、愛されたい。
そのことだけを、一貫して訴え続けていると言えます。
誰も私を愛さないから、誰も私を見てくれない。
だから彼女は、密室を作り続けるのでしょう。
人間には不可能な、密室がここにある。
人間には不可能なことは魔法だ。
密室があるということは、魔法があるということ。
それを見てほしい。認めてほしい。
魔法があるということは、魔女がいるということ。
それを見てほしい。認めてほしい。
こんな私がここに実在するということを、お願いだから、誰か認めてほしい。
存在しない魔法が、それでも存在してほしい。
愛とは存在を認めること。
だから愛があれば。
誰かが愛してくれれば。
魔法は存在でき、私は魔女でいられる。
魔法とはサンタクロースなんです。だと思うんです。
壁をすりぬける魔法の杭を使って、出入り不能な部屋にいる被害者を殺す、なんてことは、現実に起こりえません。
だから、魔法殺人なんてものは、存在しません。
けれど、出入り不可能な部屋で、被害者だけが他殺されているようにしか見えないという「まるで魔法のような現象」は、存在しえます。
だから、魔法殺人は、存在します。
そのふたつを意識的に重ね合わせ、同一視するとき、「この世に魔法が存在する」が真実になります。
存在しない密室が、存在してほしい。
密室が存在することで、魔法が存在してほしい。
魔法が認められることで、魔女である私は、祝福されたい。
来るはずのないプレゼントが、枕元に置いてあってほしい。
プレゼントが存在することで、サンタクロースが存在してほしい。
サンタクロースに認めてもらうことで、自分を祝福してほしい。
このふたつが、もし、同一の心の動きなのだとしたら、
「こんなものただのトリックだ。魔法なんてあるわけねえだろ!」
という言葉は、なんと愛がないのでしょう。
*
「うみねこのなく頃に」という作品は、ちょっと異様とも思えるほど、
「あり」か「なし」か。
「A」か、「B」か。
といった、二者択一の言い回しが多用されています。
たとえば、
「推理は可能か不可能か」
「アンチミステリーvsアンチファンタジー」
「魔女に屈するか、立ち向かうか」
「魔女説か犯人人間説か」
こういうのって、皆さん、「自分はこっちだ」と、ひとつひとつ選んでいるのでしょうか。
わたしは、ひとつも選んでいません。
手品師が、「さあ、ここに注目していてください!」と指し示す場所に、タネはありません。
二者択一が示されたとき、
答えはそのどちらかである、というのが、すでに思いこみなのだと思うのです。
そして、
「サンタクロースは、いるのか、いないのか」
この二者択一は、細かい付帯条件をつけずに、かたいっぽうを取って単純に「こちらが真実だ」なんて言うことはできないのです。
サンタクロースはいる、が真実の場合もあるし、いない、が真実の場合もある。両方が同時に真実である場合もありうるだろうし、両方とも真実でない場合もあるでしょう。
それは定義と認識によるし、
認識によるということは……つまり、「願い」による。そして「愛」の有無による。
魔法はあるのかないのか。それも、きっと同じです。
どちらか片方が常に真実だ、というような性質のものでは、きっとない。
たぶん、作中に提示される、すべての二択が、そうだと思うのです。
どっちか片方だ、と思うかぎり、何かにしばられている。
二択の答えは、常に、
「どちらでもあり、どちらでもない。ひとつ上位の階層から両方をつつみこむような認識」
だと思うのです。
それは、どちらかを一方的にリジェクトしないということ。
かたっぽに対して、
「おまえなんかいらない、おまえに価値なんかない」
などと捨てないこと。
それはゆるやかな意味で、「愛」かもしれないな、という感じもするのです。
(新作公開前に全体的な気持ちをまとめてみました)
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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[Ep4当時に執筆されました]
●再掲にあたっての筆者注
ベアトリーチェ観について情緒的につづったエッセイです。
ep5の公開前に、なにかまとまったことを書きたいな、と思って、何気なくキーボードに向かったら、こんなのが出てきました。
以下が本文です。
☆
大上段に、「愛について」なんて語るのは大変気恥ずかしいです。でも、どうもそれは避けて通れないようなので、一席おつきあい願います。
ひょっとして、真里亞は小学校のクラスで無視をされていたのだろうか。そこまでのいじめには逢ってなかっただろうか、ということを考えています。
いわゆる、シカトというやつ。
誰がいつ思いついたのだか知らないが、あれは、いじめの手法としては人類史上最悪といっていいと思います。
話しかけても、
誰にも聞こえない。
触れても、
反応してくれない。
周りのすべての人間が、
とにかく、
自分を知覚してくれない。
そのように振る舞う。
それは、一言でいえば、こういうこと。
「おまえなんか、ここにいない」
存在の否定。
これって、結託して、本気でやられると、幼少期の自我に本格的なダメージとなります。
本当に、自分は存在していないんじゃないかと思いこむ場合もありうる。
だって、それはそうで。
私たちは、見て、触れることができるから、ここに携帯があるとか、パソコンがあるとかいうことがわかる。
もし、幽霊みたいに透過してしまうなら、そこに確かに「もの」があるとは確かめられないでしょう。
幽霊みたいに。
そう。
もし、あなたの手が、幽霊みたいに、ものをすりぬけてしまうのだとしたら、ここに確かに「私がいる」とも、確かめられないんじゃないでしょうか。
コンビニで、返事をしないレジ店員にあったこと、ありませんか。
「あたためてください」とか「領収書ください」って、言ったつもりだったのに、返事がない。
不安になりませんか。
聞こえているのかな?
聞こえてないのかな?
自分は、「あたためてください」って言ったつもりだけれど、本当に言っただろうか。
言ったつもりになっただけ?
私が、発したと思ったコトバは、この世にちゃんと「存在した」だろうか。
人間の、自己認識というか、自我というか、「私がここにいるという感覚」は、体の中にあるのではなくて、ものと自分との間、人と自分との関係性の中にあるんです。
だから、それを悪用すれば……。
おまえなんか見えない。
おまえなんか聞こえない
そう決めて、そのように振る舞うことで、ひとりの人間の、存在を消去することすらできる。
おまえなんか見えない。
それは、「愛」の対極にある行為です。
*
ならば、
愛とは「見ること」。
そういえるんじゃないだろうか。
愛するとは、存在を認めること。
「あなたはここにいる」と言うこと。
あなたはここにいるし、
そして、あなたはここにいていいのだ。
あなたは私のそばに間違いなくいるし、
私のそばにずっといていい。
私はあなたを見ている。
私はあなたを知覚し、認識している。
そしてあなたを理解したいと思う。
私は、あなたがここに間違いなくいて、
日々の暮らしをしていることを、
いつでもいかなるときでも、ずっと確かめ続け、感じ続けていたい。
それが、「愛する」ということの、正体なのじゃないのか。
だとしたら。
愛とは視ること。
愛がなければ、存在はない。
愛がなければ、いない。
魔女ベアトリーチェは、「世界を構成する一なる元素は愛だ」と言いました。
世界があなたの存在を認めなければ、あなたは存在しない。
あなたが存在しないのなら、あなたも世界が存在することを認めることができない。よって、世界もまた存在しない。
存在を認めることを「愛」と呼ぶのなら、そう。あなたが世界を認め、世界があなたを認めることで、初めて「世界」は構成される。「世界を構成する一なる元素は愛」。
そして、人生には時として、たったひとりの人間が「世界」を代表してしまうことがある。
それは、紗音にとっての譲治であったり、
ベアトリーチェにとっての、真里亞であったり、
真里亞にとっての、ママだったりするのでしょう。
紗音にとっては、譲治に愛されることは、世界から愛されるのと同じこと。
紗音にとっては、譲治から愛されなくなることは、世界から「おまえはいらない」と言われるのと同じことです。きっと。
*
ところで。
サンタクロースのお話をしたいのです。
ep3で、ベルン、ラムダ、ベアトリーチェの3人が、とても象徴的な話をしていました。
ラムダデルタが、「サンタクロースはいないのよ!」という意味のことを言い、ベルンカステルとベアトリーチェは「何と、ラムダデルタ卿のところにはサンタクロースは来てくれなかったのか、かわいそうに」とやり返す。
さて、サンタクロースは、いるのかいないのか。
「サンタクロースはいる!」
と、あなたは赤字で言えますか。
「サンタクロースはいない!」
と、あなたは赤字で言えますか。
いま、どっちかを選んだ人でも、一瞬、「うっ」という、ためらいがあったんじゃないでしょうか。
だって、そんなの、サンタクロースの定義によりますよね。
トナカイびきの空飛ぶソリに乗って、北極圏からやってくる、赤い服と白いおひげのおじいちゃん。
そういう人物が、存在していないということは、これは常識で考えて、言えるでしょう。
でも、クリスマスの朝、子供の枕元には、プレゼントが置いてあります。
そんなことをするのはサンタクロースです。
だから、サンタクロースはいると言えます。だって明確な証拠がある。
ラムダデルタは、前者のサンタクロースについて語り、ベルンカステルは後者のサンタクロースについて語っているのですね。
幻想存在としてのサンタクロースおじいちゃん。これを念頭に置くとき、
「サンタクロースは存在しない」
が正しいでしょう。
でも、枕元に愛のこもったプレゼントが置かれる「サンタクロース現象」、これを念頭に置くとき、
「サンタクロースは存在する」
が正しいはずです。
だから、問いの正しい答え方はこうです。
「サンタクロースがいるかいないかは、その定義による」
そして、定義によるということは、
「場合によっては、サンタクロースが存在する、が真実である」
ということです。
このことが、「魔法」のすべてなんだ。そう思うのです。
現象としてのサンタクロースは、間違いなく存在する。
そして、「現象サンタクロース」と、「幻想存在サンタクロース」を、意図的に重ね合わせて、同一視することによって、「幻想存在サンタクロース」はほとんど存在しているも同然になる。
赤い服と白いおひげのおじいちゃんは、その同一視……つまり「見ること」によって、実在させることができるのです。
愛とは存在を認めること。
愛のない行為によって、そこにいる人間を、存在しなくさせることができます。
でも、そのかわり、愛によって、存在しない人物を、存在させることができるのです。
今年一年、ボクはいい子にしていました。そのことを認めて下さい。認めてくれるなら、その証拠として、ごほうびに、素敵なおもちゃを下さい。
それって、子供と、世界との、相互の確認作業なんです。
ボクは見守られている。そして、「認められている」。
おもちゃは単なるおもちゃではなく、世界から祝福されている、愛されているあかしなんです。
今年一年、ボクはいい子にしていました。そのことを認めてほしい。それを認めてくれた証拠として、素敵なおもちゃをもらいたい。
だから、サンタクロースは本当にいてほしい。
その「願い」を前にして、
特殊能力を持ったサンタクロースという特定の人物がいないという物理的な事実を理由として、
「サンタクロースなんかいない」
という人がいたとしたら、それは、なんという、愛のない言葉だろうと思う。
ママが帰ってこなくてさみしい。けれど、ママが作ってくれたライオンのぬいぐるみがいつもそばにいてくれる。
この子とお話ができたら、きっとさみしくないよ。だから、さくたろには喋れてほしい。動いて、遊んでほしい。お友達になってほしい。
そんな「願い」を前にして、
さくたろうが、物理的には単なる布とパンヤの塊であることを理由にして、
「こんなものただの人形よ、喋らないし動かない!」
と誰かが言ったとしたら、それはなんという、愛のない発言でしょう。
*
「うみねこのなく頃に」には、相手を認める、承認すること、
または、
承認しないことによって存在を認めないこと、
そういう展開が数多くちりばめられている、と思うのです。
「私はもう家具じゃない」という紗音は、
自分はもう必要ないときには無視される存在ではない。私はここに確かにいるし、ここにいていいんだ。そういう承認を受けた少女の、歓喜のことばだと理解できます。
「嘉音くんは家具なんかじゃない、人間だよ」という言葉は、
私はあなたを見る。私はあなたが確かにここにいることを認める。あなたは無視できるような空虚な存在じゃない。あなたにここにいて欲しい。
そんな「愛」のことばだと思うのです。
「あなたなんか、知らない」は、愛の正反対の言葉です。
あなたの存在を、もう認めてあげない。私にとって、あなたはもう、いないのと同じ。あなたが何を叫ぼうとも私は聞く耳を持たない。あなたとは何の関わりもなく、私の世界は続いていくだろう。
「俺は絶対に魔女を認めねえ」
おまえなんか、存在しない。
そこでベアトリーチェの話をしたいのです。
ベアトリーチェは、誰ひとりとして魔法を認めようとしない世界の孤独な魔女です。
誰ひとり、魔法があるなんて信じてない。
誰ひとり、魔女だなんて思ってくれない。
それって、
声をかけても、聞こえない。
自分の姿が、誰にも見えない。
自分の姿を、誰も見てくれない。
それと同じような気がするのです。
ベアトリーチェは上から目線で、妾を否定できるものならしてみるがよい、絶対に妾の存在を認めさせてやろう、と言っていますが、
それは裏をかえせば、
私がここにいることを、誰かに認めてほしい。
私を無視しないでほしい。
私の声を聞いてほしい。
いま、ベアトリーチェを想定して、このようなことを言っていますが、
それは「ベアトリーチェに扮している中の人」にとっても、同じなのかもしれません。
私はここに、この世界に生きていていいのだと、誰かに承認してもらいたい。
世界から、あなたは意味があってここにいるのだと祝福されたい。
世界をひとりで代表するような誰かから、
おまえは間違いなくここにいるし、
ずっとここにいていいのだよ、と、言ってもらいたい。
私は、「魔女」でありたい。
だから、君は魔女だよと、誰かに認めてもらいたい。
誰かを見てあげ、声を聞いてあげ、自分が確かにここにいるということを承認してあげることを「愛」と呼ぶのだとしたら、
彼女は、愛されたい。
そのことだけを、一貫して訴え続けていると言えます。
誰も私を愛さないから、誰も私を見てくれない。
だから彼女は、密室を作り続けるのでしょう。
人間には不可能な、密室がここにある。
人間には不可能なことは魔法だ。
密室があるということは、魔法があるということ。
それを見てほしい。認めてほしい。
魔法があるということは、魔女がいるということ。
それを見てほしい。認めてほしい。
こんな私がここに実在するということを、お願いだから、誰か認めてほしい。
存在しない魔法が、それでも存在してほしい。
愛とは存在を認めること。
だから愛があれば。
誰かが愛してくれれば。
魔法は存在でき、私は魔女でいられる。
魔法とはサンタクロースなんです。だと思うんです。
壁をすりぬける魔法の杭を使って、出入り不能な部屋にいる被害者を殺す、なんてことは、現実に起こりえません。
だから、魔法殺人なんてものは、存在しません。
けれど、出入り不可能な部屋で、被害者だけが他殺されているようにしか見えないという「まるで魔法のような現象」は、存在しえます。
だから、魔法殺人は、存在します。
そのふたつを意識的に重ね合わせ、同一視するとき、「この世に魔法が存在する」が真実になります。
存在しない密室が、存在してほしい。
密室が存在することで、魔法が存在してほしい。
魔法が認められることで、魔女である私は、祝福されたい。
来るはずのないプレゼントが、枕元に置いてあってほしい。
プレゼントが存在することで、サンタクロースが存在してほしい。
サンタクロースに認めてもらうことで、自分を祝福してほしい。
このふたつが、もし、同一の心の動きなのだとしたら、
「こんなものただのトリックだ。魔法なんてあるわけねえだろ!」
という言葉は、なんと愛がないのでしょう。
*
「うみねこのなく頃に」という作品は、ちょっと異様とも思えるほど、
「あり」か「なし」か。
「A」か、「B」か。
といった、二者択一の言い回しが多用されています。
たとえば、
「推理は可能か不可能か」
「アンチミステリーvsアンチファンタジー」
「魔女に屈するか、立ち向かうか」
「魔女説か犯人人間説か」
こういうのって、皆さん、「自分はこっちだ」と、ひとつひとつ選んでいるのでしょうか。
わたしは、ひとつも選んでいません。
手品師が、「さあ、ここに注目していてください!」と指し示す場所に、タネはありません。
二者択一が示されたとき、
答えはそのどちらかである、というのが、すでに思いこみなのだと思うのです。
そして、
「サンタクロースは、いるのか、いないのか」
この二者択一は、細かい付帯条件をつけずに、かたいっぽうを取って単純に「こちらが真実だ」なんて言うことはできないのです。
サンタクロースはいる、が真実の場合もあるし、いない、が真実の場合もある。両方が同時に真実である場合もありうるだろうし、両方とも真実でない場合もあるでしょう。
それは定義と認識によるし、
認識によるということは……つまり、「願い」による。そして「愛」の有無による。
魔法はあるのかないのか。それも、きっと同じです。
どちらか片方が常に真実だ、というような性質のものでは、きっとない。
たぶん、作中に提示される、すべての二択が、そうだと思うのです。
どっちか片方だ、と思うかぎり、何かにしばられている。
二択の答えは、常に、
「どちらでもあり、どちらでもない。ひとつ上位の階層から両方をつつみこむような認識」
だと思うのです。
それは、どちらかを一方的にリジェクトしないということ。
かたっぽに対して、
「おまえなんかいらない、おまえに価値なんかない」
などと捨てないこと。
それはゆるやかな意味で、「愛」かもしれないな、という感じもするのです。
(新作公開前に全体的な気持ちをまとめてみました)
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
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文章が読みやすく、わかりやすい。このサイトの読者への「愛」が伝わってくるようです。
お陰様で、『うみねこ』世界に一層引き込まれました。ありがとうございます。
わたしは自分にとってなるべく読みやすい文章を書こうとしていますが、何しろ自分が基準なので、これがかえって読みにくいという人もいるようです。難しいところです。