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ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
筆者-Townmemory 初稿-2012年7月10日
●再掲にあたっての筆者注
本稿は、2012年7月に書かれました。つまり『ローズガンズデイズ season1』が発売されるより前に書かれたものです。
当時、『ローズガンズデイズ』のダウンロード体験版が公開されていました。チャプター1のクライマックス直前くらいまでの内容を読むことができるようになっていました。
その体験版を読んで、思ったことや予測したことを書き付けたのが、この文章です。
この文章の初出は、オンラインストレージSugarSyncのファイル共有によるpdfファイルです。申し込みされた方のみが閲覧できるようにしていましたが、本編も発売され、賞味期限も切れたと判断しましたので、一般公開します。
製品版の公開によって、無効となった論述もありますが、初出のまま掲示します。
以下が本文です。
☆
『ローズガンズデイズ』の体験版を読みました。
勝手な感想と勝手な予想とを。
●「何々に似ている」といいたくなる
07th expansionの作品は、「この部分は○○に似ていて、こっちの部分は××に似ている」みたいなことをいいたくなりがちなんですよね。そういう言及を誘発するようなところがある。
うみねこのときにも、相当「これのモトネタはあれだ」的なことをいいたい衝動にかられたのですけれども、なるべく自制しておりました。ネタがミステリー関係なので、ネタバレを恐れた(モトネタ側のネタバレになる)というのが、理由のひとつ。
でもそれ以上に、「これの元はあれ」みたいなことをいくら並べ立てても、並べ立てただけでは何を言ったことにもならないよな、という気持ちが大きかった。その「並び」を有機的につなげて、何か新味のある別のことを言うことができるか。むしろ「元はあれ」ではくくりきれない部分のアリやナシやが重要なのだから、そういう部分に注力して見ていくほうが明らかに建設的だ。そういう考えを持っているわたしです。
でも『ローズガンズデイズ』に関しては、「これって何々ふうだなぁ」から入っていったほうが、話がはやそうだ。だからそういうとこから話に入っていくことにします。これって、日活無国籍アクション映画だよねぇ。
●無国籍アクションって?
「無国籍アクション映画」というジャンルが、かつてありました。
というか、あったそうです。
なにしろわたしは、ちゃんと見たことがないので、知識でしかしりません。
1950年代末から60年代にかけて、大ヒットをした、映画の一ジャンルです。日本で撮られた、日本が舞台の、日本人出演の映画なのですが、やってることはどうみても拳銃ドンパチ西部劇か、ロサンゼルス風暗黒街マフィア抗争もの、という、今から考えると相当変な作品群。そういうものがありました。
日本が舞台の、日本人のお話なのですが、主人公は「拳銃使いの私立探偵」とか「拳銃使いの殺し屋」とか「拳銃使いの用心棒」とか、そういうの。対する敵は、マフィアのボスやら、対立するギャングやら、敵側の拳銃使いの殺し屋やらで、だれもかれも、メンタリティにしろ吐く台詞にしろ、まったくもって日本人ばなれしている。
つまり、西洋製の西部劇だとか、暗黒街もの、フィルムノワールといった映画のカッコよさにシビれちゃった映画の作り手や、映画ファンがたくさんいたわけです。
「こういうものを我々も作ろう」
といって、「そういうもの」を作っちゃった。すると、日本が舞台で日本人が出演してるのに、やってることは西部劇そのものとかいう、ヘンなものができあがる。
「この映画、なんなんだよ、どこの国の話なんだよ」
というもっともな指摘に対して、
「さあ、それは……」
といって、何となくとぼけるしかないような、そういう不思議な世界ができあがる。
そういうのを、「国籍についてはもう考えないことにするアクション映画」というわけで、「無国籍アクション映画」というようになったらしいです。
このジャンルから、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎といった、そうそうたるスターたちがうまれました。
一応、ここは日本だということになっているけれども、映ってるものや、やってることが、ひとっつも、日本じゃない。
でもまあ、カッコいいから、そこはいいじゃんか。
レオ・獅子神なんて、戦中世代の日本人の名前じゃねぇよ。言動にしたって、いっこも日本人じゃねーじゃんか。日本人が食い詰めたとき、「パスタが食いてぇ」「パンにもありつけねぇ」なんて、絶対いわねーよ。
(「レオ獅子神」という名前は、もう、いかにも、無国籍アクションの主人公っぽいネーミングだ)
だけども、「そのへんは、まぁ、いいじゃん」で押し通す。
そういうものとして『ローズガンズデイズ』は生まれてきたようです。(このへんのこと、あとでちょっとしたところにつなげますので、覚えといて下さい)
●中国という「現実」
といっても、全部が全部「まぁいいじゃん」で押し通すのはさすがに不可能なので、「どうしてこんな日本になったか」という最低限の説明が加えられています。
敗戦で米中が乗りこんできて、日本各地の都市レベルで権力抗争をした結果、日本全体が何やらホンコンじみたカオス状態になった。国境線を引いて分割統治するのではなく、都市レベルでミニマムなイニシアチブ争いをするような構図になったので、ごちゃまぜになり、暗黒街的な都市が発生した。
そんな感じでした。
「米ソ」ではなく「米中」としたところが、ちょっとしたみそで、わたしは良いなと思いました。
「米ソ」という枠組みは、わたしたちのこの現代では、終了していますからね。「米ソ」なんていうのは、激しく今更感があります。
われわれの現代における大国同士の軋轢といえば、これはアメリカと中国です。そこをちゃんと持ってきてる。
(余談ですが、クラークの『2001年宇宙の旅』でも、アメリカと張り合って覇権を競っている大国は、ソビエトロシアではなくて、中国なのです。ACクラーク、素晴らしい先見の明です)
ついでにいえば、中国を持ってきたことによって、チャイニーズマフィアを容易に登場させることもできそうですしね。ノワール映画にマフィアはつきもの。マフィアといえばシシリーかチャイナかというのが定番です。
わたしは、ちょっと、『高い城の男』みたいだなと思ったのです。
フィリップ・K・ディックの『高い城の男』は、「太平洋戦争で日本が勝利していたら」というif世界のアメリカを描いた物語です。それにちょっと似ています。
けれども、『高い城の男』に似ていると思うのは、よく考えるとおかしいのです。なぜなら、われわれの現実でも、日本は戦争に敗北したのであって、それは『ローズガンズデイズ』も同様ですから、「ひっくりかえしのif世界」になっていないのです。
ひっくりかえしとして成立していないにもかかわらず、「ひっくりかえしのif作品」である『高い城の男』と『ローズガンズデイズ』を、わたしは似ていると思う。
ということは、どうやらわたしの中に、
「日本という国は(何らかの意味で)勝利者である」
という自意識があるようです。それをあらためて自覚しました。それはどうも、わたし的に重要なことのように思えますので、少し気にしておくことにします。
●酒とバラの日々
『酒とバラの日々』という映画があります。アル中になったカップルの物語です。テーマ曲はジャズのスタンダードナンバーとして人気があります。
『ローズガンズデイズ』(Rose Guns Days)というタイトルは、ここから持ってきたんじゃないかな。
というのも、『酒とバラの日々』の原題は「Days of Wine and Roses」というのです。
おそらく、本来的に、作者が意図しているのは、
『Days of Guns and Roses』
(拳銃とバラの日々/用心棒たちとマダムローズの日々/戦いと華やかな宴の日々)
というタイトルだと思われます。
しかしながら、そうしてしまうと、この世の中には「ガンズアンドローゼス」というロック・スーパースターがいるのですから、
「(ロックバンドの)ガンズンローゼス(に夢中になった)の日々」
という方向に、意味がどうしてもひっぱられてしまって、うまくありません。
そこで『Rose Guns Days』という、英語的には意味不明感がただようものの、やけにリズムが良くて押し出しの効いたカタカナタイトルをひねりだしたわけなのでしょう。
こういう意味不明感ただよう英文字タイトルは07thにあっては昔からのことで、わたしはもう、『When they cry』という三単語を目にするたびに首をかしげて落ち着かない気持ちになり、いまだに慣れません。それに比べたら『ローズガンズデイズ』はずいぶん良いです。
ジャズ・スタンダードナンバーの『酒とバラの日々』は、歌詞を追っていくと、
「あのうるわしき酒とバラの日々は、もう過ぎ去ってしまった」
「過ぎ去ってしまったものは、もう二度と戻ってはこないのだ」
そんなような内容を歌い上げるものです。
そして『ローズガンズデイズ』は、もはや日本的アイデンティティというものがまったく失われてしまった架空の現代世界で、「かつてあった日本」というものの姿を知る最後の生き証人マダム・ジャンヌが、今はもうない、過ぎ去ってもう二度と戻ることのない時代の美しい姿を、なんとか後世に伝えようとして、もはや絶滅危惧種となってしまった純日本人の記者に対して、昔話をしている。
そういう枠組みを持った作品なのです。
おそらくそういうところに、わざと響き合わせているはずです。
*
ところで、タイトルにも入っている肝心の「銃」(Guns)は、いつ出てくるのでしょうね。
体験版では、マフィアのはんちく共が中途半端にちらつかせるばかりで、小道具として、ほとんど「生きて」いませんでした。そのあたりはちょっと気にしておくことにします。
●「民族的アイデンティティ」という名の「フィクション」
『ローズガンズデイズ』が、
「無国籍アクション映画ふうの作品であること」
と、
「失われてしまった日本というものを回想するスタイルの作品であること」
この二つは、とても重要なことだと、わたしは認識しました。
くりかえしになりますが、この物語は、「現代からみた、過去の回想」という形式をとっています。
アメリカと中国に占領され、アメリカ人とアメリカ文化が押しよせ、中国人と中国文化も押しよせ、それらによって領土的にも文化的にも塗りつぶされてしまった日本。
そんな状況が何十年も続いた結果、世代が入れ替わって、日本語を喋る人口は激減し、混血が大きく進んで、探しでもしないかぎり純日本人なんてものはいない状態になり、日系であるという自覚くらいはあっても、「自分は日本人である」という自意識はほぼ絶滅している時代。現実におけるアイヌ民族の状況に近い。
「文化的領域としての日本」がほぼ消滅しており、完全消滅までカウントダウン状態にある。そういう時代。
より端的に言えば、日本的アイデンティティが失われてしまった状況。
そういう状況下で、
「戦後の激動を生き抜いた、日本人としての自意識を持つ最後の老女」
が、
「かつて日本人、かくありき」
という証言を、どうしても後世に伝えたい、語り継いでもらいたいと願って、ついに語り始めたのが、この『ローズガンズデイズ』の物語です。
それだけ聞けば、まるで村上龍の『五分後の世界』のような、右翼小説、民族小説ですよね。
ところが、そんなふうに一筋縄でくくれないのが、『ローズガンズデイズ』の面白いところです。
日本というのはこうだったのよ、ということを知って貰いたくて始めた物語の主人公に、「日本らしさ」が一カ所もない。
「オレが知ってる日本はもうどこにもねぇ……」
と悲嘆するレオ獅子神本人に、どっこもかしこも日本人らしさがない。
そういうねじれ。噛み合わなさ。
そこが『ローズガンズデイズ』を、一筋縄ではいかなくしています。
混血が進み、
何が日本人で何が日本人でないのかがあいまいになった世界で、
「かつての日本人というものは、こうだったのよ」といって老マダムが語る物語。
それがどんな物語かといえば、
どこもかしこもまったくもって日本ではない「無国籍アクション」という。
この奇妙なねじれ。
これを「構図の作りそこない」(作者の失敗)とするのは簡単ですし、読む側の勝手ですけれど、わたしはこれを「見るべきところだ」と思いました。
わたしはこれを、
「日本の民族的アイデンティティというものが、徹底的にあいまいになるような構造がつくられている」
というふうに読みます。「日本というのは、いったいどこにあるんだ!?」と読む人に思わせる。そういう作品だと考えるのです。そういうふうに読むことで、この話は、とても「われわれにさしせまった物語」となり、スリリングになる。
日本人としてのアイデンティティが希薄化しており、しかもそのことをまったく問題だと思っていない日本人の女性記者に対して、
「日本人ってこうだったのよ、それを忘れないで。語り継いでほしいの」
という願いを持った老マダムの語る物語の中に、われわれが普通にイメージする「日本人らしさ」が、いまのところ、どこにもない。
たとえば。アニメ『コードギアス』は、架空の超大国に日本が占領され、国家としての主権を喪失するという物語でした。『ローズガンズデイズ』と似ています。
このアニメで、主権回復のための地下レジスタンス活動を行なう日本人たちは、「私はニッポン人だ!」と絶叫して、民族的アイデンティティにしがみつきます。そして、あまりにもシンボリックなことに「日本刀」型の接近戦武器を使い、サムライ・スタイルで戦い抜こうとします。
そっちが普通の発想なのです。異国の侵略者に立ちむかうために、民族的イメージを結集する。これは筋が通っています。
そうなっていない『ローズガンズデイズ』(おそらく意図的に)は、いったい何なんだ、
と考えるとき、この作品の見どころというものが、にじみでてくるように思います。
●日本らしさとは、何なのか
そこで、ふと立ち止まってしまうのですが、この話を「日本らしくない」というときの「日本らしさ」とは、具体的には何なのでしょうか。
我々が「日本らしさ」というとき、たとえば何が想定されているだろう。
例えば。
日本独特の美意識。「和」の心。
桜。
菊と刀。
大和魂。
茶道や華道。ワビ・サビ。浮世絵の鮮やかさと精密さ。粋(イキ)と心意気。
そういうキーワードが、ぱっと浮かんだりするのではないでしょうか。
でもですね、それって本当に、「かつてありし日本」「日本らしいもの」なのか?
ちょっと立ち止まって、疑問に思ってみても良さそうに思います。
和の心でまとまり、調和し、独特な美意識をとぎすまし、桜の美しさと潔さ、鍛え上げられた鋼の刃とそれが象徴する忠誠心、華美よりも素朴さと古さを愛し、それでいて職人的意識が高く、ハートで生きている日本人。かつて、昔はそうだった日本人。
そんな時代や、そんな人間が、本当にあったのか?
「そういう良きものを備えた人々の、そういう良き時代があった」というフィクションなんじゃないのか。
いま挙げたようなステレオタイプなイメージは、じつは、
「過去を振り返ったときに、我々の頭の中に捏造された日本」
の姿なんじゃないのか。
そのように、
「日本らしさ、という名のフィクション」
というものをいったん仮定してみたとき、
その「日本らしさ」なるものと「無国籍アクション」とは、まったく平等な、同じ価値になるのです。
われわれが無意識に「日本らしいもの」と感じるもの。その「感じ」が実はまったくの「幻想」であるのなら、その「架空の日本らしさ」の位置する場所に、同じく幻想である「無国籍アクション映画」を置き換えても、まったく通用してしまう。
だから、一見「ねじれ」だと見えていたものは、「基準が最初からねじれてた」という条件を設定することによって、ねじれではなくなる。
そしてマダム・ジャンヌの言葉は、
「あなたたちにとっては、まったく日本的とは思えないであろうこの物語。この物語の中から、それでも《日本なるもの》を見つけだしてみなさい。見つけ出せるかしら?」
という、一種の禅問答のようなクエストとして、「わたしたちに」(林原樹里に対してではなく)差し迫ってくるのです。
「日本的なるものをすべて取り去った。さあ、この中に日本のありやなしや」
そのような問いかけとしてこの物語を読むことは、(わたしには)可能です。
●幻想を取り去った後に残るもの
以上のような、「テンプレート的な日本らしさをいったん取り去ってみたとき、それでも残るものとは何か」という問いかけ。
これを、こんなふうに言い換えてみると、『うみねこ』との対比が可能になります。
「幻想をすべて取り去ったとき、残るもの」
『うみねこ』は、幻想のうえに幻想を重ね、その上からさらに幻想を塗り重ねていくという作品でした。
『ローズガンズデイズ』は、
「わたしたちユーザーが所与のものとして持っていた幻想を、しょっぱなから破る。幻想を破って無効化したところから始める」
という作品である。
……という言い方は可能かもしれない。
幻想が消え失せたところに、いったい何があるのか。
そもそも、本当に「何か」があるのか? ひょっとして何もないのではないか。われわれには本当に「身(実)」があるのか? からっぽなのにそうではないふりをしているのではないか。それでも何かはあると信じられるだろうか……。
というところまで、行って欲しいというのが、わたしの期待であります。
●「日本って何」と考える日本人たち
この節は余談。
われわれの生きているこの現代というのは、中国と韓国の台頭、竹島、排他的水域、日本海問題、尖閣諸島と石原慎太郎知事、インターネットの普及で海外の反応がノータイムで伝わるようになったこと、などを背景にして、
かつてないほどに、「日本って何?」ということを日本人が考えるようになった時代
なのではないかな、という気分が、わたしにはあります。
(インターネットユーザーのある種の層がプチ右翼化していくというのも、この現象の一側面です)
そういう気分をわたしは持っていますので、「フィルムノワールの皮をかぶって、ずいぶん現代的なテーマを取り上げてきたなあ」というのが、わたしの感じた基本的な手触りです。
●ところで「ゲーム」として
話は急に変わりますが、このゲーム、戦闘部分がおもしろいですね。簡単ですし、爽快感があります。
シンプルなのに、緊張感があるし、楽しい。
ちょっと『スナッチャー』とか『ポリスノーツ』の戦闘に似ています。すごく斬新かというとそうでもないけれど、よく考えられていて、気分が良いのです。
洒落てるなあと思ったのが、リザルト画面に出てくる「ストレートフラッシュ」の項です。これ、きっと、とどめの一撃のときに選ぶトランプを連番にすると、ボーナス点があるんでしょう?
……と、思って、最初の2回の戦闘(1戦闘に3回の攻撃があるので、それを2回)のカード選択を、1→2→3→4→5→6にしてみたんだけれど、ストレートフラッシュ判定は有効になりませんでした。おかしいな。製品版にはあるのかしら。
そういう感じで、けっこう楽しく遊んだのですが、ひとつ重大な危惧があります。
おそらく……
ずっとこの調子でおなじ戦闘が続くなら、このままだとわたしは飽きます。
でも、たぶんそうはならなくて、きっと製品版では、いろんな変化をつけてくるものと想像しています。
たとえば、ここで話をつなげるのですが、体験版にはパンチやキックの戦闘しかありませんでした。
そこに、ちょっと毛色の違う「ガンアクションモード」が入り込んでくるとかね。何しろこれは『ローズガンズデイズ』なのですからね。
「どこそこを狙って撃て」だとか、「敵のいる場所を探して仕留めろ」だとか。あるいは「弾をよけろ」とか(^_^)。
そういった変化があるといいなあっていう、予想っていうか、願望を言ってみました。
*
とりあえず、最初の感想は以上です。
■製品版season1の感想はこちら→ ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち
■ローズガンズデイズ 目次■
ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
筆者-Townmemory 初稿-2012年7月10日
●再掲にあたっての筆者注
本稿は、2012年7月に書かれました。つまり『ローズガンズデイズ season1』が発売されるより前に書かれたものです。
当時、『ローズガンズデイズ』のダウンロード体験版が公開されていました。チャプター1のクライマックス直前くらいまでの内容を読むことができるようになっていました。
その体験版を読んで、思ったことや予測したことを書き付けたのが、この文章です。
この文章の初出は、オンラインストレージSugarSyncのファイル共有によるpdfファイルです。申し込みされた方のみが閲覧できるようにしていましたが、本編も発売され、賞味期限も切れたと判断しましたので、一般公開します。
製品版の公開によって、無効となった論述もありますが、初出のまま掲示します。
以下が本文です。
☆
『ローズガンズデイズ』の体験版を読みました。
勝手な感想と勝手な予想とを。
●「何々に似ている」といいたくなる
07th expansionの作品は、「この部分は○○に似ていて、こっちの部分は××に似ている」みたいなことをいいたくなりがちなんですよね。そういう言及を誘発するようなところがある。
うみねこのときにも、相当「これのモトネタはあれだ」的なことをいいたい衝動にかられたのですけれども、なるべく自制しておりました。ネタがミステリー関係なので、ネタバレを恐れた(モトネタ側のネタバレになる)というのが、理由のひとつ。
でもそれ以上に、「これの元はあれ」みたいなことをいくら並べ立てても、並べ立てただけでは何を言ったことにもならないよな、という気持ちが大きかった。その「並び」を有機的につなげて、何か新味のある別のことを言うことができるか。むしろ「元はあれ」ではくくりきれない部分のアリやナシやが重要なのだから、そういう部分に注力して見ていくほうが明らかに建設的だ。そういう考えを持っているわたしです。
でも『ローズガンズデイズ』に関しては、「これって何々ふうだなぁ」から入っていったほうが、話がはやそうだ。だからそういうとこから話に入っていくことにします。これって、日活無国籍アクション映画だよねぇ。
●無国籍アクションって?
「無国籍アクション映画」というジャンルが、かつてありました。
というか、あったそうです。
なにしろわたしは、ちゃんと見たことがないので、知識でしかしりません。
1950年代末から60年代にかけて、大ヒットをした、映画の一ジャンルです。日本で撮られた、日本が舞台の、日本人出演の映画なのですが、やってることはどうみても拳銃ドンパチ西部劇か、ロサンゼルス風暗黒街マフィア抗争もの、という、今から考えると相当変な作品群。そういうものがありました。
日本が舞台の、日本人のお話なのですが、主人公は「拳銃使いの私立探偵」とか「拳銃使いの殺し屋」とか「拳銃使いの用心棒」とか、そういうの。対する敵は、マフィアのボスやら、対立するギャングやら、敵側の拳銃使いの殺し屋やらで、だれもかれも、メンタリティにしろ吐く台詞にしろ、まったくもって日本人ばなれしている。
つまり、西洋製の西部劇だとか、暗黒街もの、フィルムノワールといった映画のカッコよさにシビれちゃった映画の作り手や、映画ファンがたくさんいたわけです。
「こういうものを我々も作ろう」
といって、「そういうもの」を作っちゃった。すると、日本が舞台で日本人が出演してるのに、やってることは西部劇そのものとかいう、ヘンなものができあがる。
「この映画、なんなんだよ、どこの国の話なんだよ」
というもっともな指摘に対して、
「さあ、それは……」
といって、何となくとぼけるしかないような、そういう不思議な世界ができあがる。
そういうのを、「国籍についてはもう考えないことにするアクション映画」というわけで、「無国籍アクション映画」というようになったらしいです。
このジャンルから、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎といった、そうそうたるスターたちがうまれました。
一応、ここは日本だということになっているけれども、映ってるものや、やってることが、ひとっつも、日本じゃない。
でもまあ、カッコいいから、そこはいいじゃんか。
レオ・獅子神なんて、戦中世代の日本人の名前じゃねぇよ。言動にしたって、いっこも日本人じゃねーじゃんか。日本人が食い詰めたとき、「パスタが食いてぇ」「パンにもありつけねぇ」なんて、絶対いわねーよ。
(「レオ獅子神」という名前は、もう、いかにも、無国籍アクションの主人公っぽいネーミングだ)
だけども、「そのへんは、まぁ、いいじゃん」で押し通す。
そういうものとして『ローズガンズデイズ』は生まれてきたようです。(このへんのこと、あとでちょっとしたところにつなげますので、覚えといて下さい)
●中国という「現実」
といっても、全部が全部「まぁいいじゃん」で押し通すのはさすがに不可能なので、「どうしてこんな日本になったか」という最低限の説明が加えられています。
敗戦で米中が乗りこんできて、日本各地の都市レベルで権力抗争をした結果、日本全体が何やらホンコンじみたカオス状態になった。国境線を引いて分割統治するのではなく、都市レベルでミニマムなイニシアチブ争いをするような構図になったので、ごちゃまぜになり、暗黒街的な都市が発生した。
そんな感じでした。
「米ソ」ではなく「米中」としたところが、ちょっとしたみそで、わたしは良いなと思いました。
「米ソ」という枠組みは、わたしたちのこの現代では、終了していますからね。「米ソ」なんていうのは、激しく今更感があります。
われわれの現代における大国同士の軋轢といえば、これはアメリカと中国です。そこをちゃんと持ってきてる。
(余談ですが、クラークの『2001年宇宙の旅』でも、アメリカと張り合って覇権を競っている大国は、ソビエトロシアではなくて、中国なのです。ACクラーク、素晴らしい先見の明です)
ついでにいえば、中国を持ってきたことによって、チャイニーズマフィアを容易に登場させることもできそうですしね。ノワール映画にマフィアはつきもの。マフィアといえばシシリーかチャイナかというのが定番です。
わたしは、ちょっと、『高い城の男』みたいだなと思ったのです。
フィリップ・K・ディックの『高い城の男』は、「太平洋戦争で日本が勝利していたら」というif世界のアメリカを描いた物語です。それにちょっと似ています。
けれども、『高い城の男』に似ていると思うのは、よく考えるとおかしいのです。なぜなら、われわれの現実でも、日本は戦争に敗北したのであって、それは『ローズガンズデイズ』も同様ですから、「ひっくりかえしのif世界」になっていないのです。
ひっくりかえしとして成立していないにもかかわらず、「ひっくりかえしのif作品」である『高い城の男』と『ローズガンズデイズ』を、わたしは似ていると思う。
ということは、どうやらわたしの中に、
「日本という国は(何らかの意味で)勝利者である」
という自意識があるようです。それをあらためて自覚しました。それはどうも、わたし的に重要なことのように思えますので、少し気にしておくことにします。
●酒とバラの日々
『酒とバラの日々』という映画があります。アル中になったカップルの物語です。テーマ曲はジャズのスタンダードナンバーとして人気があります。
『ローズガンズデイズ』(Rose Guns Days)というタイトルは、ここから持ってきたんじゃないかな。
というのも、『酒とバラの日々』の原題は「Days of Wine and Roses」というのです。
おそらく、本来的に、作者が意図しているのは、
『Days of Guns and Roses』
(拳銃とバラの日々/用心棒たちとマダムローズの日々/戦いと華やかな宴の日々)
というタイトルだと思われます。
しかしながら、そうしてしまうと、この世の中には「ガンズアンドローゼス」というロック・スーパースターがいるのですから、
「(ロックバンドの)ガンズンローゼス(に夢中になった)の日々」
という方向に、意味がどうしてもひっぱられてしまって、うまくありません。
そこで『Rose Guns Days』という、英語的には意味不明感がただようものの、やけにリズムが良くて押し出しの効いたカタカナタイトルをひねりだしたわけなのでしょう。
こういう意味不明感ただよう英文字タイトルは07thにあっては昔からのことで、わたしはもう、『When they cry』という三単語を目にするたびに首をかしげて落ち着かない気持ちになり、いまだに慣れません。それに比べたら『ローズガンズデイズ』はずいぶん良いです。
ジャズ・スタンダードナンバーの『酒とバラの日々』は、歌詞を追っていくと、
「あのうるわしき酒とバラの日々は、もう過ぎ去ってしまった」
「過ぎ去ってしまったものは、もう二度と戻ってはこないのだ」
そんなような内容を歌い上げるものです。
そして『ローズガンズデイズ』は、もはや日本的アイデンティティというものがまったく失われてしまった架空の現代世界で、「かつてあった日本」というものの姿を知る最後の生き証人マダム・ジャンヌが、今はもうない、過ぎ去ってもう二度と戻ることのない時代の美しい姿を、なんとか後世に伝えようとして、もはや絶滅危惧種となってしまった純日本人の記者に対して、昔話をしている。
そういう枠組みを持った作品なのです。
おそらくそういうところに、わざと響き合わせているはずです。
*
ところで、タイトルにも入っている肝心の「銃」(Guns)は、いつ出てくるのでしょうね。
体験版では、マフィアのはんちく共が中途半端にちらつかせるばかりで、小道具として、ほとんど「生きて」いませんでした。そのあたりはちょっと気にしておくことにします。
●「民族的アイデンティティ」という名の「フィクション」
『ローズガンズデイズ』が、
「無国籍アクション映画ふうの作品であること」
と、
「失われてしまった日本というものを回想するスタイルの作品であること」
この二つは、とても重要なことだと、わたしは認識しました。
くりかえしになりますが、この物語は、「現代からみた、過去の回想」という形式をとっています。
アメリカと中国に占領され、アメリカ人とアメリカ文化が押しよせ、中国人と中国文化も押しよせ、それらによって領土的にも文化的にも塗りつぶされてしまった日本。
そんな状況が何十年も続いた結果、世代が入れ替わって、日本語を喋る人口は激減し、混血が大きく進んで、探しでもしないかぎり純日本人なんてものはいない状態になり、日系であるという自覚くらいはあっても、「自分は日本人である」という自意識はほぼ絶滅している時代。現実におけるアイヌ民族の状況に近い。
「文化的領域としての日本」がほぼ消滅しており、完全消滅までカウントダウン状態にある。そういう時代。
より端的に言えば、日本的アイデンティティが失われてしまった状況。
そういう状況下で、
「戦後の激動を生き抜いた、日本人としての自意識を持つ最後の老女」
が、
「かつて日本人、かくありき」
という証言を、どうしても後世に伝えたい、語り継いでもらいたいと願って、ついに語り始めたのが、この『ローズガンズデイズ』の物語です。
それだけ聞けば、まるで村上龍の『五分後の世界』のような、右翼小説、民族小説ですよね。
ところが、そんなふうに一筋縄でくくれないのが、『ローズガンズデイズ』の面白いところです。
日本というのはこうだったのよ、ということを知って貰いたくて始めた物語の主人公に、「日本らしさ」が一カ所もない。
「オレが知ってる日本はもうどこにもねぇ……」
と悲嘆するレオ獅子神本人に、どっこもかしこも日本人らしさがない。
そういうねじれ。噛み合わなさ。
そこが『ローズガンズデイズ』を、一筋縄ではいかなくしています。
混血が進み、
何が日本人で何が日本人でないのかがあいまいになった世界で、
「かつての日本人というものは、こうだったのよ」といって老マダムが語る物語。
それがどんな物語かといえば、
どこもかしこもまったくもって日本ではない「無国籍アクション」という。
この奇妙なねじれ。
これを「構図の作りそこない」(作者の失敗)とするのは簡単ですし、読む側の勝手ですけれど、わたしはこれを「見るべきところだ」と思いました。
わたしはこれを、
「日本の民族的アイデンティティというものが、徹底的にあいまいになるような構造がつくられている」
というふうに読みます。「日本というのは、いったいどこにあるんだ!?」と読む人に思わせる。そういう作品だと考えるのです。そういうふうに読むことで、この話は、とても「われわれにさしせまった物語」となり、スリリングになる。
日本人としてのアイデンティティが希薄化しており、しかもそのことをまったく問題だと思っていない日本人の女性記者に対して、
「日本人ってこうだったのよ、それを忘れないで。語り継いでほしいの」
という願いを持った老マダムの語る物語の中に、われわれが普通にイメージする「日本人らしさ」が、いまのところ、どこにもない。
たとえば。アニメ『コードギアス』は、架空の超大国に日本が占領され、国家としての主権を喪失するという物語でした。『ローズガンズデイズ』と似ています。
このアニメで、主権回復のための地下レジスタンス活動を行なう日本人たちは、「私はニッポン人だ!」と絶叫して、民族的アイデンティティにしがみつきます。そして、あまりにもシンボリックなことに「日本刀」型の接近戦武器を使い、サムライ・スタイルで戦い抜こうとします。
そっちが普通の発想なのです。異国の侵略者に立ちむかうために、民族的イメージを結集する。これは筋が通っています。
そうなっていない『ローズガンズデイズ』(おそらく意図的に)は、いったい何なんだ、
と考えるとき、この作品の見どころというものが、にじみでてくるように思います。
●日本らしさとは、何なのか
そこで、ふと立ち止まってしまうのですが、この話を「日本らしくない」というときの「日本らしさ」とは、具体的には何なのでしょうか。
我々が「日本らしさ」というとき、たとえば何が想定されているだろう。
例えば。
日本独特の美意識。「和」の心。
桜。
菊と刀。
大和魂。
茶道や華道。ワビ・サビ。浮世絵の鮮やかさと精密さ。粋(イキ)と心意気。
そういうキーワードが、ぱっと浮かんだりするのではないでしょうか。
でもですね、それって本当に、「かつてありし日本」「日本らしいもの」なのか?
ちょっと立ち止まって、疑問に思ってみても良さそうに思います。
和の心でまとまり、調和し、独特な美意識をとぎすまし、桜の美しさと潔さ、鍛え上げられた鋼の刃とそれが象徴する忠誠心、華美よりも素朴さと古さを愛し、それでいて職人的意識が高く、ハートで生きている日本人。かつて、昔はそうだった日本人。
そんな時代や、そんな人間が、本当にあったのか?
「そういう良きものを備えた人々の、そういう良き時代があった」というフィクションなんじゃないのか。
いま挙げたようなステレオタイプなイメージは、じつは、
「過去を振り返ったときに、我々の頭の中に捏造された日本」
の姿なんじゃないのか。
そのように、
「日本らしさ、という名のフィクション」
というものをいったん仮定してみたとき、
その「日本らしさ」なるものと「無国籍アクション」とは、まったく平等な、同じ価値になるのです。
われわれが無意識に「日本らしいもの」と感じるもの。その「感じ」が実はまったくの「幻想」であるのなら、その「架空の日本らしさ」の位置する場所に、同じく幻想である「無国籍アクション映画」を置き換えても、まったく通用してしまう。
だから、一見「ねじれ」だと見えていたものは、「基準が最初からねじれてた」という条件を設定することによって、ねじれではなくなる。
そしてマダム・ジャンヌの言葉は、
「あなたたちにとっては、まったく日本的とは思えないであろうこの物語。この物語の中から、それでも《日本なるもの》を見つけだしてみなさい。見つけ出せるかしら?」
という、一種の禅問答のようなクエストとして、「わたしたちに」(林原樹里に対してではなく)差し迫ってくるのです。
「日本的なるものをすべて取り去った。さあ、この中に日本のありやなしや」
そのような問いかけとしてこの物語を読むことは、(わたしには)可能です。
●幻想を取り去った後に残るもの
以上のような、「テンプレート的な日本らしさをいったん取り去ってみたとき、それでも残るものとは何か」という問いかけ。
これを、こんなふうに言い換えてみると、『うみねこ』との対比が可能になります。
「幻想をすべて取り去ったとき、残るもの」
『うみねこ』は、幻想のうえに幻想を重ね、その上からさらに幻想を塗り重ねていくという作品でした。
『ローズガンズデイズ』は、
「わたしたちユーザーが所与のものとして持っていた幻想を、しょっぱなから破る。幻想を破って無効化したところから始める」
という作品である。
……という言い方は可能かもしれない。
幻想が消え失せたところに、いったい何があるのか。
そもそも、本当に「何か」があるのか? ひょっとして何もないのではないか。われわれには本当に「身(実)」があるのか? からっぽなのにそうではないふりをしているのではないか。それでも何かはあると信じられるだろうか……。
というところまで、行って欲しいというのが、わたしの期待であります。
●「日本って何」と考える日本人たち
この節は余談。
われわれの生きているこの現代というのは、中国と韓国の台頭、竹島、排他的水域、日本海問題、尖閣諸島と石原慎太郎知事、インターネットの普及で海外の反応がノータイムで伝わるようになったこと、などを背景にして、
かつてないほどに、「日本って何?」ということを日本人が考えるようになった時代
なのではないかな、という気分が、わたしにはあります。
(インターネットユーザーのある種の層がプチ右翼化していくというのも、この現象の一側面です)
そういう気分をわたしは持っていますので、「フィルムノワールの皮をかぶって、ずいぶん現代的なテーマを取り上げてきたなあ」というのが、わたしの感じた基本的な手触りです。
●ところで「ゲーム」として
話は急に変わりますが、このゲーム、戦闘部分がおもしろいですね。簡単ですし、爽快感があります。
シンプルなのに、緊張感があるし、楽しい。
ちょっと『スナッチャー』とか『ポリスノーツ』の戦闘に似ています。すごく斬新かというとそうでもないけれど、よく考えられていて、気分が良いのです。
洒落てるなあと思ったのが、リザルト画面に出てくる「ストレートフラッシュ」の項です。これ、きっと、とどめの一撃のときに選ぶトランプを連番にすると、ボーナス点があるんでしょう?
……と、思って、最初の2回の戦闘(1戦闘に3回の攻撃があるので、それを2回)のカード選択を、1→2→3→4→5→6にしてみたんだけれど、ストレートフラッシュ判定は有効になりませんでした。おかしいな。製品版にはあるのかしら。
そういう感じで、けっこう楽しく遊んだのですが、ひとつ重大な危惧があります。
おそらく……
ずっとこの調子でおなじ戦闘が続くなら、このままだとわたしは飽きます。
でも、たぶんそうはならなくて、きっと製品版では、いろんな変化をつけてくるものと想像しています。
たとえば、ここで話をつなげるのですが、体験版にはパンチやキックの戦闘しかありませんでした。
そこに、ちょっと毛色の違う「ガンアクションモード」が入り込んでくるとかね。何しろこれは『ローズガンズデイズ』なのですからね。
「どこそこを狙って撃て」だとか、「敵のいる場所を探して仕留めろ」だとか。あるいは「弾をよけろ」とか(^_^)。
そういった変化があるといいなあっていう、予想っていうか、願望を言ってみました。
*
とりあえず、最初の感想は以上です。
■製品版season1の感想はこちら→ ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち
■ローズガンズデイズ 目次■
感想、とても面白いと思いました。楽しかった、面白かった、つまらなかったの感性に寄る個の感想ではなく、それこそ物語るような文章は流石だと思います。
RoseGunsDaysはうみねこと違って箱の中身を開けていく物語なので風呂敷がどんな風に広がってゆくのか楽しみです。私個人の思う所なのですが、竜騎士さんは物語の広げ方がとても面白い書き手さんだと思っています。なので、箱の中身は何か?よりどんな箱なのだろうかという所を今は楽しみにしております。
season2が発売され、また感想が読めたら嬉しいなと思っております。是非とも勝手ながら楽しみにしております。
長々と稚拙な文章すみませんでした。
こんにちは。ご清覧ありがとうございます。良い悪いを直接的に言ってしまうと、そこだけしか読者の印象に残らない、という傾向があるようです。他にいっぱい重要なことを書いていても、読んだ人の頭に残るのはそこだけ、ということになってしまいがちで、なるべく避けています。本編の感想もそのうちUPしますね。
案山子さんの感想を興味深く読ませていただきました。案山子さんのようなうみねことローズガンズデイズの対比はおもしろいです。うみねこは最初に箱を開いて箱を見ながら考えを巡らせていくゲームですもんね。
Townmemoryさん
Townさんの書かれた「他にもいっぱい重要なことが書かれているのに」という文を読み、自分は恐らくTownさんが言いたいことのほんのわずかしか理解できていないんだろうなと思いました。どの文も味わえてそっと心にしまえるような自分になりたいのですが、少しでも味わったことを忘れたくない記憶にとどめておきたいという焦りがあります。構えて読むより、わくわく読みたいです。