静止質量不変を、相対論と量子論で思考する。
これを、
静止質量不変の、数式と現実の、物理現象の違い。で説明する。
。。
静止質量不変とは、読んで字のごとし。
本来、物質は何もしなければ、何も変化しない、との発想ですね。
しかし。。
本当は、量子論的、思考では、前から、何度も言ってるけど、
(物質M±)とは、変化進行形の性質があるので、常に、姿、形、性質、等々は、変化を続けているのです。
従って、この世に、同一物質など、存在しないのです。
。。。
。。。
ですから、この世、つまり、物質世界に、静止質量など、実際には存在しない、
のですが??
現実の実生活には、それでは、不便である。
それでは、計算式が成り立たない。
それゆえ、相対論的思考で、多少の誤差は無視して、確定、としよう。
との発想で、仮定の数式上、静止質量を不変としたのです。
。。。。。
。。。。。
本当は、
相対論が無視する、多少の誤差を追及する、量子論的発想では、
(物質M±)には、変化進行形の性質による、変化により、
静止質量など無い。
つまり、
仮定の数式でなく、<量子論的、物理観測>では、
静止質量不変、など、有り得ない、のです。
。
理解出来ても、理解出来なくても、これが、真実なのです。
では、具体的に、現実世界の、物理的、距離、を思考しましょう。
例えば、東京の日本橋から、富士山迄の距離、や、アメリカ大陸迄の距離。
このような、
距離は、量子論的に、厳密に言えば、大陸移動などで、常に変化しているのですね。
これは、小さな、鉛筆だって、そうなのです。
鉛筆のサイズを計測する、物差しだって、その長さは、量子論的には、常に変化と途中であり、距離の確定は出来ないのです。
しかし、距離、サイズが、未確定では、現実世界では、不便である。
それゆえ、多少の誤差は無視して、確定としよう。。
これが、相対論的な、確定とする発想なのです。
。。しかし。。
その、相対論が無視する、多少の誤差を、追及するのが、量子論なのです。
それゆえ、量子論では、未確定、確率論、と言われるのです。
量子の世界では、川の流れのように、常に、変化を続けていて、確定しないのです。
。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。
おや??
まったく、反応が有りませんね??
では?
南部陽一郎博士は、
何故?対称性の破壊、で、ノーベル賞を頂いたのでしょうか??
回転対称性の破壊、これは、設計図では、完璧なのですが?
実際の物理現象では、鉛筆は倒れてしまう。
これこそ、(物質M±)を語る場合に、数式とは、相対論的思考で、多少の誤差は無視して、物質の存在を確定、としよう、との発想で、使う事にしている証しである事が、理解出来る、と思いますよ。
そして、
(物質M±)とは、相対論が無視する、多少の誤差を追及する、量子論的、ミクロの未確定、変化の途中の姿の、両方の性質が、存在するのです。
その、
ミクロの、変化の途中ゆえに、自発的対称性の破壊、が起きるのです。
ですから、相対論的表記の、(物質M)だけでなくて、量子論的、変化進行形の性質の(±)を合わせた、(物質M±)、なのです。。
相対論的な、数式上では、完璧で有っても、実際の物理現象では、完璧など有り得ないのです。
これは、私が、前から、何度も言っている、
<数式>では無くて、現実の<物理現象>では、<物質M±の、変化進行形の性質>によって、常に、変化を続けていて、確定しないから、なのです。。
。。
これで、【静止質量不変】とは、
数式上の、つじつま合わせ、である事が、理解頂けましたか??
これが、理解出来ると、数式と、現実の物理現象は違う事も、理解頂ける事と、思いますよ。
。。。。。。。。。。。。
ですから、
<同じ>とは、数式や、理論の世界だけであり、物理世界はに存在しない、のです。
これが、理解出来ると、(物質M±)とは、相対論と、量子論の融合である事が理解出来る、と思いますよ。
静止質量不変、など、有り得ない。。
理解出来ましたか??
。。。。。。。。。。。。。
<物質M±とは、変化の途中であり、未確定ゆえ、同一など無い、同時も無い>
<同時とは、接点である。>
↑ 余談ですが??
これは、私の名言です。
では、今日は、この辺で
ごきげんよう
逆転地蔵
。
。
これを、
静止質量不変の、数式と現実の、物理現象の違い。で説明する。
。。
静止質量不変とは、読んで字のごとし。
本来、物質は何もしなければ、何も変化しない、との発想ですね。
しかし。。
本当は、量子論的、思考では、前から、何度も言ってるけど、
(物質M±)とは、変化進行形の性質があるので、常に、姿、形、性質、等々は、変化を続けているのです。
従って、この世に、同一物質など、存在しないのです。
。。。
。。。
ですから、この世、つまり、物質世界に、静止質量など、実際には存在しない、
のですが??
現実の実生活には、それでは、不便である。
それでは、計算式が成り立たない。
それゆえ、相対論的思考で、多少の誤差は無視して、確定、としよう。
との発想で、仮定の数式上、静止質量を不変としたのです。
。。。。。
。。。。。
本当は、
相対論が無視する、多少の誤差を追及する、量子論的発想では、
(物質M±)には、変化進行形の性質による、変化により、
静止質量など無い。
つまり、
仮定の数式でなく、<量子論的、物理観測>では、
静止質量不変、など、有り得ない、のです。
。
理解出来ても、理解出来なくても、これが、真実なのです。
では、具体的に、現実世界の、物理的、距離、を思考しましょう。
例えば、東京の日本橋から、富士山迄の距離、や、アメリカ大陸迄の距離。
このような、
距離は、量子論的に、厳密に言えば、大陸移動などで、常に変化しているのですね。
これは、小さな、鉛筆だって、そうなのです。
鉛筆のサイズを計測する、物差しだって、その長さは、量子論的には、常に変化と途中であり、距離の確定は出来ないのです。
しかし、距離、サイズが、未確定では、現実世界では、不便である。
それゆえ、多少の誤差は無視して、確定としよう。。
これが、相対論的な、確定とする発想なのです。
。。しかし。。
その、相対論が無視する、多少の誤差を、追及するのが、量子論なのです。
それゆえ、量子論では、未確定、確率論、と言われるのです。
量子の世界では、川の流れのように、常に、変化を続けていて、確定しないのです。
。。。。。。。。。。。。。。。
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おや??
まったく、反応が有りませんね??
では?
南部陽一郎博士は、
何故?対称性の破壊、で、ノーベル賞を頂いたのでしょうか??
回転対称性の破壊、これは、設計図では、完璧なのですが?
実際の物理現象では、鉛筆は倒れてしまう。
これこそ、(物質M±)を語る場合に、数式とは、相対論的思考で、多少の誤差は無視して、物質の存在を確定、としよう、との発想で、使う事にしている証しである事が、理解出来る、と思いますよ。
そして、
(物質M±)とは、相対論が無視する、多少の誤差を追及する、量子論的、ミクロの未確定、変化の途中の姿の、両方の性質が、存在するのです。
その、
ミクロの、変化の途中ゆえに、自発的対称性の破壊、が起きるのです。
ですから、相対論的表記の、(物質M)だけでなくて、量子論的、変化進行形の性質の(±)を合わせた、(物質M±)、なのです。。
相対論的な、数式上では、完璧で有っても、実際の物理現象では、完璧など有り得ないのです。
これは、私が、前から、何度も言っている、
<数式>では無くて、現実の<物理現象>では、<物質M±の、変化進行形の性質>によって、常に、変化を続けていて、確定しないから、なのです。。
。。
これで、【静止質量不変】とは、
数式上の、つじつま合わせ、である事が、理解頂けましたか??
これが、理解出来ると、数式と、現実の物理現象は違う事も、理解頂ける事と、思いますよ。
。。。。。。。。。。。。
ですから、
<同じ>とは、数式や、理論の世界だけであり、物理世界はに存在しない、のです。
これが、理解出来ると、(物質M±)とは、相対論と、量子論の融合である事が理解出来る、と思いますよ。
静止質量不変、など、有り得ない。。
理解出来ましたか??
。。。。。。。。。。。。。
<物質M±とは、変化の途中であり、未確定ゆえ、同一など無い、同時も無い>
<同時とは、接点である。>
↑ 余談ですが??
これは、私の名言です。
では、今日は、この辺で
ごきげんよう
逆転地蔵
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