昨日の奢莪の花です。夏の季語となっていますね・・・今ごろから6月くらいまで咲きますので。
私はこの奢莪の花が好きです。山地の湿った樹下などに群生すると解説にありますように、おっと驚くぐらいに群生します。
もう10年ほど前に豊後竹田市の、岡城址に登った時ですが・・・城壁の下辺りにそれほどではなかったけど少し群生していました。
歳時記の例句には・・・
奢莪のはな犬を叱りに尼の出て 川崎展宏
尼寺に来客でしょうか、犬が盛んに吠えるのを尼さんが叱っているのですね。見たままの景色ですが、温かみを感じる景です。
尼さんのたぶん作務衣すがたと日本犬、その傍らに奢莪の花があるのです。温かみを感じさせるのは、犬を叱りに、自然の中での生活に季語がぴったりですね。
英彦山の登山道にも咲いてました。
BGMは懐かしのマイルスデイビス、ラウンドアバウトミッドナイト・・・🎺
先日の記事の姪浜に神功皇后が上陸したと・・・これはいったん上陸したのです。
また船で博多方湾へ出て・・・先日書きました能古島や志賀島を通り過ぎ、宗像の大島、地の島も通り抜けて芦屋町の遠賀川河口から遡っていくのですね。
それで下船した場所が、飯塚市の中心部ですが壇の上神社(この時代はありません)がありますが、その下の川土手が壇になっている所で下船したようです。壇の上神社は能祖神社といいます。
さて朝鮮へ行く前に身ごもっていた神功皇后さんは、飯塚から内住川沿いに上っていきます。九郎原というところから、かなりきつい山越えをします。身重の皇后さんは、立派な御輿などではなく、しょうけと言います、竹か布か素材は定かではありませんが大きな笊状の担ぎものに乗って、きつい峠を越えたと言われています。
峠の名は、ショウケ越え峠として今も地名になっています。
ショウケ越えを下ると途中からこんもりした楠の森が見えたはずです。今も見えます(笑)
そのときに・・・早も見えたり、と言われたので「早見」という地名が残っておりますが、最近の町名表示の際にこの地名は行政的地名から消えました(-_-;)
それから須恵町の旅石というところで、身重の体を休められたと言われています。腰かけられた石を基に旅石という地名になったと・・・これは住居表示でも残っています(-_-;)
旅石から、光正寺古墳辺りを通り、今の宇美八幡宮がある楠の森に到着します。
この地は、古代の道の南北の十字路でありました。
この地で神功皇后は後の応神天皇を出産されます。楠の森の中でもひときわ大きな楠が2本あります。
夫々名がついておりまして、出産時の衣を掛けた樹齢2500年ほどの大楠。また産まれた皇子の産湯をしたときに、その枝が湯船に蓋をするほどに茂っていたという、湯葢の森(大楠)
さてこのように北部九州には神功皇后さんゆかりの場所がたくさんあります。
そこで考えるたのですが、ほぼ同時期の魏志倭人伝には卑弥呼さん。北部九州の狭い範囲に女傑は二人も存在しえたのでしょうか?
私は同一人物だと思います。
この話はこのページでは収まりません。またの機会に続きを・・・