子どもが最近塾に行きだしたので、というより親が耐え切れず行かせてしまったというほうが正しいのですが。お金もかかるし、疲れるかなあとか色々迷いはあるのですが、学校の勉強が分からなくなるとか進路のお先が暗くなるとかそういうほうが怖すぎて。学校だけでなんとか基礎的なことを分かってくれればいいのですが、何かに頼りたくなってしまうのが親ってもんでして。
そんな中、塾の創成期を描いた森絵都の小説を読んでみました。
そして小説読んで久々泣きました。日本の公教育と塾事情の変遷を人間ドラマを通してていねいに掘り起こし、「教育とは何か」を真摯に問いかける一冊です。
物語は、昭和39年から。教員免許がありながら教師にならなかったシングルマザーと、家の事情で高校を中退した若い男性の出会いから始まります。1964年の東京オリンピックが印象的なエピソードもあり、時代背景が、私が生まれる少し前から。日本の教育や世間の空気をなぞるように進むところが、親近感が増して読みやすかったです。
* * * 以下、ネタバレありです
登場人物たちも魅力的で、初めは用務員で、放課後子どもに勉強を教えていた大島五郎が語り手です。なぜか年上女性にもてるというこの人、来年1月にドラマ化されるときには高橋一生が演じるそうで、とても納得です。私の最初のイメージは窪田正孝って感じだったのですが、老年までやるならそうだね~と。
公教育の限界を悟り文科省を敵視する妻の「千明」は、自分の考えをどんどん押し進める気の強い女性です。こちらは永作博美がキャスティングされていて、あんまりピンとこないのですが、もちろん上手いだろうなと。
塾の創成期を支えた人たちの話なわけですが、初めは落ちこぼれを指導する補習塾の役割を担うものとして始めますが、時代と共に「進学塾」へと変わります。以前『塾に捨てられる子どもたち』で、進学塾の過酷さを読んでいたので、全然方向性が違うものだと分かっていました。もちろん進学塾がわるいわけじゃありませんが、塾を子どもの「駆け込み寺」とするのか、ビジネス商材として扱うのか、といったことまで考えさせられて、多方面に目が行き届いた話になっています。
* * *
最初は学校の、文科省の敵扱いされていた塾は、やがてなくてはならないものになり市民権を得て、やがて巨大な産業へ、そして「格差」を感じさせるものへ変貌していきます。
だから最後のターンは、孫が貧困家庭へ学習支援をする団体を立ち上げるという、これも実際にある時代の流れを汲み取っています。ゆとり教育、脱ゆとりなど、良しあしは別として、どんどん馴染みのある空気感になっていくのがまたなんとも言えない感じでした。エリート階級の選民思想に腹を立てたり。
しかし一番感動したのは、教育者の喜びを登場人物と共に味わえたところです。
学校では「ないもの」扱いされていた萌ちゃんが、宿題をやってきて、「はじめてほめれらた」と泣く場面や、作文がずっと一本調子で稚拙だった直哉君が、「綴り方教室」を読んで次第に感化されていくエピソードなど。
感化されすぎて悪い言葉遣いを覚えてしまい、学習支援に通えなくなってしまいますが、カンニングを疑われたとき、学校の先生に自ら手紙を書いて、自分の気持ちを表現することができました。何も表現できなかった子どもが知識を得て気持ちを表明する、自信をつけていくのを目の当たりにするのは、教育者の一番の醍醐味だろうと思います。
―教育は、子どもをコントロールするためにあるんじゃない。
不条理に抗う力、たやすくコントロールされないための力を授けるためにあるんだ――。
という言葉が、とても胸に迫りました。
「みかづき」というタイトルは象徴的で、学校教育が公の「太陽」なら、月の様に子どもたちを暗闇で照らす光になろう、という塾の存在意義が示されています。その月は、「教育」にもなぞらえられ、いくら望んでも試行錯誤を重ねても、「満ちることがない」という意味をも含むものになっています。とても意味深い言葉だと思います。
子どものための教育とは何か、日夜考えている人にはとても刺激になる本だと思います。
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