令和3年6月29日(火)
近畿日本鉄道主催 きんてつハイキング てくてくまっぷコース
「❷東海道 富田から萬古焼のさと四日市」の続きです。
東海道はここで左にカーブします。
(@'ω'@)ん?
その前に正面に何やら気になるものがありました。
新設用水道碑
明治三十五年(1902)頃より大字茂福地内の耕地整理事業が行われ、
十四川の改修工事に伴い茂福町へ流れる水路が無くなり、東茂福町の水田に水が入らなくなりました。
そこで此の碑より北西に十四川の中間より七百六十米の暗渠による水路を通し、各家々の敷地内に
(マンボ)を設置して、明治三十七年(1904)八月完成より、大正・昭和中期まで、生活用水・
防火用水として利用をしていました。
しかし、東茂福の水田地帯に国道一号線の開通に伴い水田は埋め立てられ、その後昭和三十四年(1959)
伊勢湾台風の水害により暗渠に土砂が流れ込み、また水源地の十四川の環境悪化のため、この用水道は
消滅しました。
そしてこちらは力石
明治の中期、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。
また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
その節、土台石の中よりこの石を運び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったという。
およそ三十二貫(約百二十キロ)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人も居なかったと言われる。
茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。
石に三十二メと刻まれている。
下にある小さな石は重さ五貫(約十九キロ)で子供用であろうか。。
赤ずきん、こちらの小さな子供用の力石を持ち上げてみました。
なんとか持てるw
ギリギリでしたww
そしてこちらの大きな力石ですが、動かすことも出来ませんでしたw
こんなの肩越しまで持ち上げる人いるの?
信じられぬw
こんなの肩に乗せたら、潰れてしまいますよw
東海道へ戻ります。
東海道は左へ曲がります。
途中、紫陽花が綺麗に咲いていました。
そしてすぐ、今度は右へ曲がって行きます。
この曲りは何だろうね?
岡崎の二十七曲りの意味と同じかな?
道は一本道ですが、ちょこっと曲がったところがあります。
ここにもお寺さんがありました。
林光山 證圓寺
今回は通過していきます。
ちょっと古そうな建物がありました。
二階はあの窓しかない。
蔵でしょうか?
この微妙な曲がり具合は、当時のままかなぁ?
またここで橋が現れました。
前川橋です。
前川。
サギが飛び立ちました。
ちょっと離れて着地。
近鉄特急 アーバンライナーが通過していきます。
ちっちゃな花が咲いていました。
茂福神社と描かれた石碑がありました。
スサノウが祀られています。
(・ε・)ムー
暑さが厳しくなってきたので、今回は通過していきます。
高架橋が迫ってきました。
この高架橋を潜って、さらに真っ直ぐ進んで行きます。
長くなりましたので、続きはまたにします。