ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

旅先の光景;夏目漱石のゆかり(9) 大分県 日田 「日田にて五岳を憶ひ」

2021-09-18 08:09:10 | 漱石ゆかりの地
 引き続き、明治32年1月の旅です。
 耶馬溪から峠を越え、漱石と奥太一郎は1月5日に日田に入ります。

 日田では、平野五岳についての句を詠んでいます。
 「日田にて五岳を憶ひ
   〇詩僧死して只凩の里なりき    」

 平野五岳(ひらのごがく)は、豊後の人。文化8(1811)~明26(1893)。江戸後期から明治時代の僧で、漢詩文・画・書の三分野ともに優れて三絶僧と言われます。広瀬淡窓に詩文を学び、田能村竹田の文人画に影響を受けました。

 五岳が住職をした専念寺に、現在では五岳の像が建っています。 ↓


 

また、そのすぐそばに、五岳の五言絶句の詩碑があります。
詩;五言絶句 「人世貴無事/不争名与功/鳥遷喬木後/幽谷亦春風」
詩の読み; 「じんせいぶじをたっとぶ/なとこうとをあらそわず/とりはきょうぼくにうつりてのち/ゆうこくもまたしゅんぷう」
 詩碑そばの説明板によれば、松方正義や大久保利通から内閣の要職に就くよう誘われたとき、この詩を呈して辞退したということです。 ↓
 

漱石の句碑と説明板もそこにあります。漱石は五岳の清廉な生き方に共感していたのかもしれません。


平野五岳の師、広瀬淡窓が開いた私塾咸宜園(かんぎえん) ↓





咸宜園内で掲示されていた資料です。「咸宜」は、「咸く宜し(ことごとくよろし)」ということで、学ぶ者それぞれのよさを伸ばすとした広瀬淡窓の思いがこもっているとのことです。平野五岳の名も見えます。 ↓


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旅先の光景;夏目漱石のゆかり(8) 耶馬溪から日田へ 漱石、雪道で馬に蹴られる

2021-09-17 09:32:55 | 漱石ゆかりの地
 相変わらず、漱石明治32年1月の旅の話です。

 1月5日、漱石と奥太一郎は、耶馬溪の守実(もりざね)を発ち峠を越えて豊後日田に向かいます。

守実の日田往還中津街道の標識です。↓

 そのときの句に、
   〇隧道の口に大なる氷柱(つらら)かな
とあり、この隧道(ずいどう)は大石峠隧道(おしがとうずいどう)と言われているものでしょう。今では使用されていないのではないかと思います。読みづらい名称です。漱石はほかにも句を詠みました。
 〇かたかりき鞋(わらじ)喰ひ込む足袋の股
 〇炭を積む馬の背に降る雪まだら
こうした漱石の句は、実感に基づいて素直に詠んだ写実的なもので、ひねくり回していない点が好きです。

 峠を下っているときの出来事を漱石は句にしました。
「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ
  〇漸(ようや)くに又起きあがる吹雪かな  」

 大変な目に遭ったものです。ただ、漱石には気の毒ながら、何となくユーモラスな感じもします。

 この時のことを漱石は親友の狩野亨吉(かのうこうきち)宛の手紙に書いています。
 「豊後と豊前の国境何とか申す峠にて馬に蹴られて雪の中に倒れたる位がお話しに御座候」

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旅先の光景;夏目漱石のゆかり(7) 耶馬溪 賴山陽 擲筆峰(てきひっぽう)

2021-09-15 10:24:18 | 漱石ゆかりの地
 引き続き、漱石の明治32年1月五高の同僚奥太一郎との旅行についてです。

下は旅程の概略です。
1月1日 熊本出発・小倉泊
1月2日 宇佐八幡参詣  四日市泊
1月3日 耶馬溪 口の林(くちのはやし)泊
1月4日 耶馬溪 守実(もりざね)泊
1月5日 日田 吉井(よしい)泊
1月6日 久留米 熊本帰着
(小倉泊、四日市泊は、近砂敦さんの『耶馬溪』に拠ります。)

 耶馬溪には賴山陽が訪れたときに、余りの絶景に筆を投げ出したという〈擲筆峰(てきひっぽう)〉があり、今では記念碑があります。 ↓

 漱石は、耶馬溪について「山陽の賞囋し過ぎたる為(ため)にや左迄の名勝とも存ぜず通り過申候」と友人への手紙に書いています。山陽は賴山陽のことです。
 『草枕』の中で、寺の和尚が、賴春水(山陽の父)、賴杏平(春水の弟)などと比べて「山陽が一番まずい様だ。どうも才子肌で俗気があって、一向面白うない」と言っていますが、これは漱石の見方でもあったようです。
 漱石は、山陽の書は否定的に見ていますが、『日本外史』については否定的には言っていないようです。審美眼が合わなかったのかもしれません。

擲筆峰;戦前(大正?)の絵葉書 「山陽投筆」と下の説明書きの中にあります。 ↓


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旅先の光景;夏目漱石のゆかり(6) 大分県 耶馬溪 青の洞門

2021-09-14 12:51:00 | 漱石ゆかりの地
 前回、漱石は青の洞門を通らなかったようだと書きました。今回は、その青の洞門の写真を掲載することにします。

 青の洞門は江戸時代に往来の難所とされた山国川の岸壁に享保20(1735)年から 洞門を掘り始めた禅海和尚の名と共に今でも語り伝えられています。次に中津耶馬溪観光協会のHPから記事を転載します。
〈禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。
寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。〉

青の洞門 出入口を望む 今ではよい道が通っています。道路の左側に階段が見えますが、これは禅海が元々掘った洞門の一部に通じるものです。 ↓
 

階段を降りると、標識があります。 ↓ 

禅海の掘った洞門が一部保存されています。 ↓

禅海の手彫りの鑿の跡が見られます。 ↓

青の洞門の近くの広場には禅海和尚像や資料が展示されています。 ↓




禅海和尚像 ↓

青の洞門の話は、大正8(1919)年発表の菊池寛の小説「恩讐の彼方に」できわめて有名です。小説の主人公了海は元旗本で主人を殺してその息子から仇討ちされるべき人物となっていますが、それは菊池寛の創作で、禅海にはそうしたことはありませんでした。菊池寛によって青の洞門が有名になったことは確かでしょうが、了海=禅海と思っている人が多くいるかもしれません。

菊池寛の肖像もありました。 ↓


 ちなみに、菊池寛は、芥川龍之介らの「新思潮」に加わり、大正5年(漱石はこの年の12月に死去)に漱石の木曜会に参加しています。

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旅先の光景;夏目漱石のゆかり(5) 大分県 羅漢寺

2021-09-13 09:23:10 | 漱石ゆかりの地
 漱石明治32年1月の小旅行、前回紹介した宇佐八幡に続いて、漱石と同僚の奥太一郎は、耶馬溪に入ります。
 漱石は青の洞門(旧)を通らず岨道を通って羅漢寺に行ったものと思われます。なお、今の青の洞門は明治39年から改修され始めたものが基になっています。

 羅漢寺は曹洞宗の寺院で、数千体の羅漢が安置されていて、周囲の景勝とあいまって、幽玄な趣を呈しています。
 羅漢寺 ↓ 中津市HPより転載。

 漱石は「羅漢寺にて」という前書きで、七句を詠んでいます。そのうち三句を掲げます。いずれも冷寒なそして急峻な巌壁を思わせます。
〇凩や岩に取りつく羅漢路
〇巌頭の羅漢どもこそ寒からめ
〇凩の鐘楼危ふし巌(いわ)の角

羅漢寺山門 羅漢寺では写真撮影ができません。古い本からの転載です。 ↓



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