ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

『論語』つれづれ24 「群居して終日、言義に及ばず。」    2021.8.30

2021-08-30 15:26:10 | 論語
子曰、「群居終日、言不及義、好行小恵。難矣哉。」
〇読み しいわく、「ぐんきょしてしゅうじつ、げんぎにおよばず、このみてしょうけいをおこなう。かたいかな。」
〇大意 先生がおっしゃった、「私の弟子たちは一日中群れを成して集まりながら正義の道に言及することもなく、ただ小知恵をはたらかそうとのみ力を入れている。こんなことでは世の中はよくなるまい、困ったことだ。」と。

 宮崎市定(みやざき・いちさだ1901-1995)先生の解釈を下に引用します。『現代語訳論語』(岩波現代文庫)。
《子曰く、寄り集って一日中、がやがやと暇をつぶし、言うことに一言も取り柄がなく、やることと言えばつまらぬ人気取りばかり。こんな政府ならばない方がましだ。》
※※宮崎先生のは痛烈な政治批評となっています。


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『論語』つれづれ23  子曰く、「驥はその力を称せず、その徳を称するなり。」 2021.8.10

2021-08-10 10:51:00 | 論語
〇読み しいわく、「きはそのちからをしょうせず、そのとくをしょうするなり。」
〇大意 先生がおっしゃった、「名馬の場合でも、人はその能力をほめるのではないんだね、その性質のよさをほめるものだよ。」

 〈驥〉は名馬のことで、冀州(今の河北省)が名馬の産地だったことから、名馬を〈驥〉と呼んだと言われます。
 ここでは、表面上は馬のことを言っていますが、孔子は人物のことを暗に言っているようです。馬だってただ早く遠く走ればよいというものではない、人に親しみ人とうまく仕事を仕遂げる性質を持っていなければ、賞賛されない、人だってそうだ、ただ知識や知恵があって仕事ができるだけでは不十分であって、人に親しみ人とうまく仕事ができてこそ賞賛に値する人物なのだ、孔子はこのように言いたかったのではないでしょうか。

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『論語』つれづれ22 「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。」    2021.7.8

2021-07-08 15:48:05 | 論語
これは、斉の国王の景公が、政治のあり方を孔子に尋ねたときの答えです。
○読み きみきみたり、しんしんたり、ちちちちたり、ここたり。
○大意 「君主は君主として、臣下は臣下として、父は父として、子は子として、それぞれの立場に応じて徳性を発揮できるようにしていくことが、よい政治を求める為政者には必要です。」

☆この一文は、それぞれの分を守れと言っているのではないと思われます。それぞれの立場において、そのよさ、徳性を十分発揮するようにすることが、為政者には必要だと言っているのです。


 現今の世の有様を見るに、子が子として徳性を発揮できるように、為政者は努めているといえるでしょうか。親が親として徳性を発揮できるような政治をおこなっているといえるでしょうか。為政者は部下がその徳性を十分発揮できるように、親しく接して力を伸ばしているでしょうか。


*最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 

『論語』つれづれ21 「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。」 2021.6.1

2021-06-01 10:08:25 | 論語
 これは孔子の言葉です。

 ある時、門弟の子路(しろ)と顔淵(がんえん)に孔子が〈君たちそれぞれの「志」を言ってみないか〉と投げ掛けました。
 子路は、孔子の最も古いお弟子さんで素朴にして積極的な武人でしたが、彼がまず言いました。〈馬車や馬、また上等の上着や毛皮などでも朋友と一緒に使い、それをぼろぼろになるまで使われても無念に思わないようにしたいと思います。〉
 次に顔淵が言いました。〈自分の善行を自慢せず、苦労は自ら行って、人にさせないようにしたいと思います。〉
 日常生活の中で物に即して述べる子路の言葉はいかにも子路らしいと思います。
 顔淵は、孔子が最も敬意を払っていた好学の門弟で、謙虚にして徳を積む人でした。(惜しいことに彼は孔子に先立って亡くなってしまうのです。)

 すると子路が願い出て言います。〈どうか先生の「志」をお聞かせください。〉
 それに応えたのが、表題にもあげた次の言葉でした。
〇「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。」
[ろうしゃはこれをやすんじ、ほうゆうはこれをしんじ、しょうしゃはこれをなつけん。]
〇大意 「私は、老人が安心して暮らせると思えるようにしたい。友だちから信頼を得るようにしたい。若い者からなつかれるようにしたいものだ。」

 私は、子路の言葉も顔淵の言葉もそれぞれにいいなあと思います。
 そして、孔子の言葉は、子路や顔淵の言葉よりももっと社会全体から見た人のつながりを述べているようで、これまたすごいなあと思うのです。
 「志」は、「心(こころ)+之(ゆく)」から成る字だという説があります。上の「士」は「之」が原形だと言います。すると、「志」は、〈心の之く〉ところ、すなわち、心の目指すところと言うことになります。孔子が目指した社会は、老人が安らかに暮らせて、朋友と信じ合ってものごとに取り組み、若い人からも慕われてよい社会に向かっていける、そういう社会だったと思います。
 戦乱の春秋時代にあって、こうした「志」をもって社会改良や教育に尽くした先人がいたことは驚くべきことです。

 孔子の述べた「志」は、古今東西を問わず、為政者(政治家)の目指すべき社会ではないでしょうか。


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『論語』つれづれ20 「人の己を知らざるを患へず、人を知らざるを患ふ。」 2021.5.9

2021-05-09 13:38:01 | 論語
〇「人の己を知らざるを患へず、人を知らざるを患ふ。」
 [ひとのおのれをしらざるをうれえず、ひとをしらざるをうれう。]
〇大意
「私は人が自分の力をわかってくれないと気に病むのではない、自分が人のことを理解していないのではないかと気に病むのだ。」

 孔子のことばです。
 自分の本当の力を人はわかってくれない、自分を認めて欲しい、こうした気持ちは誰にでもあるものだと思います。   
 孔子にもそうした気持ちがあったからこそ、この戒めのことばが出てきたのではないかという気がします。
 みなが相手や他人のことを理解するように努めれば、おのずと自分のことも理解されるようになるでしょう。
 まず、自分ありきで押していくと、周囲が自分をわかってくれないという〈くれない不満症〉に我々は陥ってしまうのではないかと思います。
 自戒の言葉です。


**ご覧くださりありがとうございました。