ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

『論語』つれづれ19  「人遠慮無ければ、必ず近憂有り。」    2021.4.6

2021-04-06 15:00:11 | 論語
〇子曰く、「人遠慮無ければ、必ず近憂有り。」
 [しいわく、「ひとえんりょなければ、かならずきんゆうあり。」]
〇大意; 先生がおっしゃった、「人は常に将来のことをよく考えて対応策・予防策を練っておかないと、きっと近々困ったことが起こる。」と。

 遠い先のことなど考えておいても仕方がないなどと思っていると、遠い先はいつの間にか足下にやってきているもので、その時にもしも事が起こっていたとしたら、まさにそれは「近憂」ということになります。遠い先もやってくれば近い今です。遠近の受け止め方を考えさせてくれた一文です。

**ご覧くださりありがとうございました。



『論語』つれづれ17  古の愚や直、今の愚や詐のみ。   2011.3.16

2021-03-16 09:39:04 | 論語
孔子の言葉です。
〇古の愚や直、今の愚や詐のみ。 いにしえのぐやちょく、いまのぐやいつわりのみ。
〇愚というのは、昔も今もよくないものである。しかし、それでもまだ昔の愚というのは、率直で作為がなかった、しかし、現今の愚というのは人をだまそうとするもので何ともひどいものだ。

*愚というのは、智や賢と対照的な語だといえます。いつの時代でも、愚は人の避けたいものにちがいありませんが、智者賢者にはそう簡単になれるものではなく、自分も含め愚者で終わる者の方が多いと思います。しかし、孔子は、昔の愚者のあり方の方が今よりもよかったと嘆いているようです。昔の愚者は嘘偽りがなく、そのまま愚者であった、それにひきかえ今の愚者は人をだまそうとするねじ曲がった要素を持ってしまっていると思ったのでしょう。
*ある学者は、「畢竟(ひっきょう;つまりは)政治教育が十分行われない結果である」と述べていますが、私は政治教育も含めて、人格教育の不十分さがいつの時代でも世をまげていくのではないかと思いま
す。
*付言  「愚直」という言葉があります。これは、本来自分の正直さを謙遜して言う言葉だとされています。人様に対して、〈あなたは愚直の一念で頑張りましたね〉とは一般的には用いません。

**卑見を最後までご覧くださり、ありがとうございます。

『論語』つれづれ16  渋沢栄一『論語講義』講談社学術文庫版    2021.3.6

2021-03-06 05:35:55 | 論語
 NHK大河ドラマで渋沢栄一を主人公とした「青天を衝け」が放送されています。その中でも、父親に『論語』を教わるところが出て来ますが、この幼少期の経験は渋沢栄一の生涯を大きく左右したと思います。
 今回は渋沢栄一の論語の講義を記録した『論語講義』講談社学術文庫版の写真を掲載します。全七巻あります。『論語』の研究書や注釈書は大変多くありますが、その中で、この『論語講義』は異彩を放っています。『論語』の心を経済、社会活動に活かした渋沢栄一ならではの講義内容はきわめて興味深いものです。
 例えば、「商工の実業のごときまた仁を以て大本(たいほん)とせねばならぬ。仁を大本とすれば、工業に粗製濫造なく、商業に騙𥈞詐術(へんまんさじゅつ=ひとをだます仕打ち)なく、商工業道徳高まるべし。」というように、孔子の説いた仁(人を思いやる心・態度)を実業の面から見ています。儲かれば違法でないかぎり何をしてもよい、言い抜けられればそれでよいのだという風潮は、時代・社会のありようは違っても今も昔もあったのだろうなあと思います。大いに共感すべき点があります。
 また、講義の記録なので、親しみやすい点も魅力です。



**今回もご覧くださり、まことに感謝に堪えません。

『論語』つれづれ14 「徳有る者は、必ず言有り、言有る者は必ずしも徳有らず。」     2021.2.9

2021-02-09 15:56:57 | 論語
孔子の言葉です。
読み とくあるものは、かならずげんあり、げんあるものはかならずしもとくあらず。
意味 有徳者にはきっとよい言説があるが、よい言説のある者が有徳者だとは限らない。

 徳は、例えば、義・信・勇・礼などといった社会に生きる人としての美点です。人格的、倫理的な長所・美点といってもよいと思います。温和であったり忍耐力があったり、親切であったり向上心があったり、徳には実に多くの項目があって、徳目という言葉があるのもうなずけます。
 孔子が述べているのは、有徳者は立派な言論を有しているが、だからといってりっぱな言論をなす者が皆有徳者であるかというとそうとは限らない、ということです。
 孔子にとっては、徳の実践が優先されるべきであって、言論はその後からついてくるものだという思いがあったのだろうと思います。

**最後までご覧くださって、まことにありがとうございます。
 
 

 

 

『論語』つれづれ13 「一を聞きて以(もっ)て十を知る。」    2021.1.31

2021-01-31 08:40:59 | 論語
 孔子の門弟の子貢(しこう)の言葉です。今では〈一を聞いて十を知る〉と言いますね。
 孔子が子貢に向かっておっしゃいました、〈子貢よ、お前と顔回(がんかい)とはどちらがまさっているかね。〉と。すると子貢は、〈私はとても顔回とは比べものになりません。顔回は一を聞いて十を知る人物です。私は一を聞いてやっと二を知るに過ぎません。〉とお答えしました。すると、孔子は、〈そうだなあ、お前は顔回には及ばない。しかし、それはお前だけではない、私もお前同様、顔回には及ばないのだよ。〉とおっしゃいました。
 
 子貢と顔回はほぼ同年齢です。子貢が一歳年少だったとされています。子貢は、たいそう優秀な人でしたが、人を比べたり、自分の評価を気にしたりするところのある人だったので、孔子が何かの拍子に顔回との比較を持ち出したのかもしれません。
 顔回は、孔子の講義について質問したりすることもなく、ただひたすらよく聞いていたということです。孔門随一の好学の士でした。顔回は、惜しいことに孔子よりも先に亡くなってしまいます。そのとき、孔子は、〈天が自分を滅ぼした!〉と嘆いたと『論語』に書かれています。
 顔回は、好学であり、かつ、その理解力、聡明さはすばらしいものがあったのですが、また、人格的にも非常に優れていたので、孔子から高く評価されたのでした。孔子が、子貢に〈私もお前同様、顔回には及ばないのだよ。〉と言ったとき、子貢の言う理解力や聡明さのみではなく、人格的な面でもすばらしいと言ったのではないかと推察します。

 以下、原文の訓み下し(よみくだし)です。
☆子(し)、子貢に謂(い)ひて曰(いわ)く、「女(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。」 対(こた)へて曰く、「賜(し)や何ぞ敢(あ)へて回を望まん。回や一(いつ)を聞きて以(もっ)て十を知(し)る。賜や一(いつ)を聞きて以て二を知る。」と。 子曰く、「如(し)かざるなり。吾(われ)と女と如(し)かざるなり。」  *注;賜・・・・子貢の名。子貢は、姓は端木(たんぼく)、名は賜。字は(あざな)子貢。

**ご覧くださり、まことにありがとうございます。