ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

『論語』つれづれ7 「礼は之和を用て貴しと為す。」     2020.12.27

2020-12-27 18:47:02 | 論語
これは、孔子の門弟の有子(ゆうし)の言葉です。「れいはこれわをもってたっとしとなす。」〈礼の実践は調和がとれていてこそ貴いのだ。〉
(「礼の用は和を貴しと為す」という読み方もあります。)

〈礼〉は、祭祀や儀式に典型的に表れるように、形式と秩序を重んじるものです。ただ、全体として調和がとれていないとそれは価値の高いものではないと有子は言っています。例えば、卒業式という式をとってみても、一つ一つの式次第がきちんと秩序だっていても、全体としての調和がないと、人々の心には響きません。校長の式辞が長ければ、来賓が多少祝辞を短くするとか、話し方を柔らかくするとかいった工夫も必要でしょう。

 聖徳太子の「十七条の憲法」は、その第一条が「和を以て貴しと為し(わをもってたっとしとなし)」で始まります。〈礼〉についての文言ではありませんし、内容も有子の言葉の趣旨とは違いますが、その表現は『論語』のこの部分を意識したものだと言えるのではないでしょうか。

 「十七条の憲法」では、第一条の続きに、〈いろんな党派や考えの違いがあっても、上に立つ者も下の者もよく議論していけば道理は自ずから通って事が成就する〉という意味のことが書かれています。和は、違う意見や立場を認めながら、なおかつ議論の次にある道理の実現を目指したものかと思います。
 これからの世界では、こうした考え方、態度はいっそう重要ではないかと思う次第です。

**長い文を最後までご覧くださり、まことにありがとうございました。



『論語』つれづれ6 「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。」 2020.12.22

2020-12-22 19:48:11 | 論語
前に登場した孔子門弟の子貢が、〈一生実践するに足る一言は何でしょうか〉と尋ねたときに、孔子の答えた言葉です。
「それじょか。おのれのほっせざるところは、ひとにほどこすことなかれ。」〈それは恕かなあ。自分のしてほしくないことは、人にしてはならないのだよ。〉

〈恕〉は、〈相手や他者の気持ちになって相手を受け入れる、相手に沿って思いやる〉ということです。
 私は、そのあとに、〈自分のしてほしくないことは、人にしてはならないのだよ。〉と孔子が言ったことにたいへん興味を惹かれます。人への思いやりとして、自分のいやがることを、人にしないというのは、人間関係の基本だと思いました。
 人の望むことをしてあげる、というのも一つの態度でしょう。しかし、自分がしてほしくないことを人にしないというのは、至難のことです。一見消極的に見えるかもしれませんが、本当に難しいことだと思う次第です。

**ご覧くださって、ありがとうございました。

『論語』つれづれ5 「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」 2020.12.19

2020-12-19 09:29:35 | 論語
孔子の言葉です。「くんしはわしてどうぜず。しょうじんはどうじてわせず。」意味;〈君子は調和するが、それは何でも同じ考えや行動になるということではない。一方、小人は人に追随して同じ言動をとるが、しかしそれは調和しているということではない。〉

この言葉にある「同」と「和」について、吉川幸次郎(よしかわこうじろう、1904~1980)が、「左伝(さでん)」にある斉の景公(けいこう)と晏嬰(あんえい)の問答を紹介していますので、今日はそれを引用します。

〈狩猟から帰って来た景公が首相である晏嬰と、遄台(せんだい)でくつろいでいると、佞臣(ねいしん;へつらう臣下)の梁丘拠(りょうきゅうきょ)が、むこうからやって来た。景公は梁丘拠の方を指さしながら、「あの男は私と和する」と、晏嬰にいった。晏嬰は、「あの男のは同であって、和ではありません」といい、さらに説明して、「和」とは、たとえば吸い物が、水、火、醤油、塩、梅酢と、魚肉との調和であるごとくである。それに対し、「同」とは、水に水を足し、また琴の絃の同じところばかりをたたくようなものであって、何ら建設的でなく、生産的でない。あの梁丘拠は、あなたの意見が、如何ようであれ、すぐにそれに賛成する。だから同であって、和でない。(以下略)〉(吉川幸次郎『論語・下』朝日新聞出版)

吸い物の喩えはたいへん興味深いものでした。

**ご覧くださりありがとうございました。

『論語』つれづれ4 「君子は諸を己に求む。小人は諸を人に求む。」 2020.12.16

2020-12-16 09:31:51 | 論語
 「くんしはこれをおのれにもとむ。しょうじんはこれをひとにもとむ。」孔子の言葉です。〈君子は物事の責任を自分に求めるが、小人は人のせいにする。〉という意味でしょう。

 『論語』には、君子と小人を対比させた文がいくつかあります。『論語』でいう君子は、〈学問を積み人格を磨いて社会に貢献し得る立派な人で、官僚や為政者になり得る人〉というのが私の解釈ですが、小人は、〈未熟な人、至らぬ人〉の意味かと思います。

 君子は、我が事として物事を受け止めるので、物事の原因が自己にないかと自省するのに比して、小人はむしろ他人に原因があると考えてしまうというものです。

 内心、恥ずかしさに冷や汗をかく日々です。 😰 

『論語』つれづれ 3 「 君子の過ちや、日月の食のごとし。」 2020.12.13

2020-12-13 09:42:30 | 論語
 『論語』の魅力の一つに、文学的あるいは詩的ともいえる表現があると思います。
 ここに掲げたのは、孔子の高弟子貢(しこう)の言葉です。「くんしのあやまちや、じつげつのしょくのごとし。」

 子貢は、孔子の門弟の中で弁舌弁論に優れた人とされていて、ここでも君子の過ちを日食や月食にたとえたこの子貢の言葉は、いいなあと思うのです。

 この言葉には、続きがあります。「過つや人皆之を見る。更むるや人皆之を仰ぐ。(あやまつやひとみなこれをみる。あらたむるやひとみなこれをあおぐ。)」
 全体の意味;「君子の過ちは、日食や月食のようなものだ。君子が過てば人は皆注目する。そして君子が過ちを改めると人々は感嘆安堵して仰ぎ見るのである。」

 うーん、なるほど、と思ってしまいます。

 君子は、『論語』では〈学問を積み人格を磨いて社会に貢献し得る立派な人で、官僚や為政者になり得る人〉という意味だと思います。そうした君子は、滅多に過ちをおかしませんが、しかし稀には間違いをするものです。すると、人々は驚いて注目します。日食月食を見て、何か不吉なことが起きるのではないかといったときのように。そして、君子が過ちを改めると、日食月食が過ぎ去ってまた光が蘇ったときのように、あーやはりすばらしいなあと思ってほっとし、より敬意が増したのではないでしょうか。

 君子が過ちをおかしたときには「見」と表し、過ちをあらためたときには、「仰」としているのも、また、いいなあ、と思った次第です。