伏見ビル 国有登録文化財
もとはシティホテルとして建築されたが、後に貸しビルとなった。
大阪府大阪市中央区伏見町2丁目2−3
青山ビル 国有形登録文化財
『輸入食料品店等を経営していた野田源次郎氏が、べルサイユ講和条約の為に渡欧する西園寺公望氏に同行し、
ヨーロッパでの見聞を下に帰国後、現在の地において大林組に依頼を行う。
その後大正10年(1921年)に地上3階地下1階塔屋付建築物として完成したスパニッシュ風の私邸である。
その後GHQにより接収するという話が持ち上がったが、交渉の結果GHQの将校等の関係者施設として
利用することを条件に接収を免れる。日本国独立にともないに返還され、その後貸事務所として使用される。
その時に名称を現在の「青山ビル」と改める。その後4階5階部分が増築され、
それに伴い屋上庭園と裏庭の日本庭園が廃止される。平成9年国有形登録文化財に指定される。』
(青山ビルHPより)大阪市中央区伏見町2-2-6 HP
このビルに絡まっている蔦は甲子園から分けられたものだそうで、
夏?にはきれいな緑色になる。
左:伏見ビルと青山ビルの間のビル? 右:丸福珈琲店
大阪美術倶楽部 大阪市中央区今橋2-4-5
大阪美術倶楽部のビルの前に旧鴻池家本宅跡の石碑がある。
『鴻池家は、戦国時代の武将山中鹿之介の子孫と伝えられ、戦国期末に伊丹の鴻池村で酒造業を始めています。
江戸時代初めに清酒を造る技法を確立し、その後の繁栄の基礎を作りました。鴻池家では大阪に支店を出し、
一族のうち正成を店主に充てたのですが、これが後の鴻池善右衛門となり、豪商へと成長していくこととなります。
特に3代目善右衛門は鴻池新田を開拓し、大名貨を中心とする両替業に専門化してついには十人両替となり、
大坂随一の両替商として発展することになります。1863年(文久3年)には、
結成から間もない新選組(壬生浪士組)が200両を鴻池家から借り入れています。
さらに。1864年(元治元年)には、鴻池家を中心とする大阪の豪商達が、
新選組と会津藩に対して7万1千両にも上る出資を行っています。』
私の大好きな落語「鴻池の犬」の黒犬がいた?
八木通商大阪本社ビル(旧大阪農工銀行)
東京駅の赤レンガ建築、中ノ島中央公会堂で知られる明治の建築家・辰野金吾氏によって、
大正7年に設計された。3階の部分は増築されたもの。
大阪市中央区今橋3-2-1
主人が通っていた幼稚園
大阪市立愛珠幼稚園
『明治13年に創設された、大阪で一番歴史の長い日本でも3番目に古い幼稚園です。
木造校舎は日本最古であり、また、現役の園舎であることが高く評価され、
園庭の廻旋滑り台と共に、平成19年に国の重要文化財に指定されました。』
( HPより)
大阪市中央区今橋3-1-11
銅座の跡
銅が重要な輸出品であった江戸時代、明和3年に銅集めの役所として設立された場所。
木のぬくもりが感じられる園舎。中に入ってみたいな~。
主人が通っていた頃は、この桜の木も小さかったんだろうなあ
大阪市立愛珠幼稚園HP
幼稚園の隣には緒方洪庵が江戸時代後期に開いた蘭学の私塾「適塾」がある。
大阪市中央区北浜3丁目3番8号
『適塾は江戸末期の遺構として、当時の大阪の船場町屋の姿を伝える貴重なものであって、
昭和51年から実質5年を掛けて解体修理を行い、修復を機に広く一般に公開している。』
昭和15年に大阪府の史跡、翌16年には国の史跡として指定され、
昭和39年に重要文化財として指定された。 「適塾」の詳細はこちら
大阪史跡連絡遊歩道
『大阪は古くから政治・文化の中心地として、わが国の歴史上大きな役割を果たしてきました。
旧石器席代や縄文・弥生時代の遺跡、古代の難波宮跡をはじめ大阪城跡など、
貴重な文化遺産が多くみられます。そこで大阪市では先人の遺業や由緒ある史跡を顕彰するため、
各種の施策を進めております。この中の一つ「歴史の散歩道」はこれらの史跡や古くからの道筋などを結ぶモデルコースです。』
つづく
Mameshiba
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