(7月のお話(^^ゞ)
玉造稲荷神社に行ったあと、周辺をぶらぶら歩いてみた。
なにやら、いろいろありそうだ
「歴史の散歩道」(森ノ宮勝山線) があるぞ!
難波宮跡東辺
「難波宮跡はここから400m西方にある大極殿を中心とした1km4方に広がる宮殿遺跡であり
昭和29年(1954年)以来の山根徳太郎文学博士を中心とする発掘調査により発見された・・・・」
越中井
「この付近は細川越中守忠興(ただおき)の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれている。
慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、
石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、
家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。近くのカトリック教会には、
ガラシャ夫人像とキリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)像がある。」(大阪市HPより)
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
史跡 越中井由来
「ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか。
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました。
慶長5年(1600年)忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐ん出陣した留守中。
反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れず
石田三成に取囲まれ、ぜひもなく家来に首を討たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました。
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています。
昭和9年(1934年)当時地元の越中町内会の人々相寄り、ガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです。
碑の正面表題の文字は徳富蘇峯先生の筆で、側面(左側)の由来説明は京都帝大文学部長新村出先生の文です。
改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を想い起こしてください。」
法円坂の団地が立ち並ぶ間から大阪城が見える。
西のほうに歩いていくと 史跡 難波宮跡(なにわのみやあと) に着いた。
法円坂の地に広がる遺跡を公園として整備した場所で、
「大化の改新」後に造営が始められた「難波長柄豊碕宮」跡、聖武天皇が神亀3年(726年)から
造営を行った「難波宮」跡と考えられている。敷地内には難波宮の大極殿の基壇を復元した石造りの壇がある。
回廊跡の復元。 この横に八角殿があったが写し忘れ(^^ゞ
というか、おっさんがお腹を出して下のベンチで寝てたので撮りたくなかった
あんなとこで寝てたら、いやというほど蚊に刺されたんとちゃうかな~
この周辺には「大阪あそ歩」でまた訪れると思う
越中井 中央区森の宮中央二丁目12 越中公園そば
地下鉄中央線・JR大阪環状線「森の宮」下車 南西約500m
難波宮跡 中央区法円坂1丁目
JR大阪環状線「森ノ宮」駅下車 地下鉄谷町線「谷町4丁目」駅下車
Mameshiba
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