3月9日天気良好なれどPM2.5または黄砂の為か視界がかすんでいます。今日は従兄弟のT君と示し合わせて砥上山に登ります。
自宅の松の木の彼方に見えているのがその砥上山で標高497メートルのハイキング程度の山で私は45分で登頂しますが二人づれの今日はおしゃべりのダラダラ歩行でしょう。一般てきに中津屋神社(砥上神社)を登山口にしていますが、今日は集落の催しがあっているようで駐車するスペースがないので軽トラックでもあるし、そのまま進入不可の所まで乗り入れました。
この石畳を10分程ゆけば杉木立を両サイドに登りも急峻になり雨水防止に階段が施してあります。
登り始めて20分位か第一の案内標識、林道&砥上岳が目につきます。
筑前町には神功皇后の伝説が数多く残っていて、登山口の中津屋の地名も賊を退治にゆく道中であり休んで宿をとったという中津屋であり、武具を研ぎ手入れをやったといい、砥上と言う地名が出来たもよう、さて山頂に向かう道筋にはひずめ石と称しこの石がかりに馬に騎乗したと伝えられる。
又いつから祀られているのか知る由もないが、これは『さやの神』と言って男性のシンボルが
奉納されている。私の地区にも『サヤノ谷』と言う地名があるが『さや』と言う語源には性神
的要素があるのだろうかと思う?
程なく行くと筑紫の市山家から来る道と交わる
次ぎの標識は近道、早道といった直線コースと緩やか蛇行道だ。それを登り越すと山頂が見えてくる。
毎年筑前町では初日の出ご来光を仰ぐイベントのおかげか?草も伸びてなくきれいです。
石段を踏み上がれば小さな祠があり、建御雷の神が祀られてある。それは茨城県、鹿島神宮の祭神を仰ぎ武運長久を神功皇后が祈ったものであろう。
今日の本来の目的は終戦を期に平和祈願として、私の父が植樹した『つげの木』と石碑を従兄弟にも知っていてほしかったのです。30年くらい前に家族揃ってここに石碑を建てに来たこと10㎏以上はあったと思われる石碑を背負って登って来た事を父の弟叔父の息子に知ってもらう為に
汗ばんだせなかも、おにぎりを2個食べ終わる頃は肌さむく感じました。
自宅の松の木の彼方に見えているのがその砥上山で標高497メートルのハイキング程度の山で私は45分で登頂しますが二人づれの今日はおしゃべりのダラダラ歩行でしょう。一般てきに中津屋神社(砥上神社)を登山口にしていますが、今日は集落の催しがあっているようで駐車するスペースがないので軽トラックでもあるし、そのまま進入不可の所まで乗り入れました。
この石畳を10分程ゆけば杉木立を両サイドに登りも急峻になり雨水防止に階段が施してあります。
登り始めて20分位か第一の案内標識、林道&砥上岳が目につきます。
筑前町には神功皇后の伝説が数多く残っていて、登山口の中津屋の地名も賊を退治にゆく道中であり休んで宿をとったという中津屋であり、武具を研ぎ手入れをやったといい、砥上と言う地名が出来たもよう、さて山頂に向かう道筋にはひずめ石と称しこの石がかりに馬に騎乗したと伝えられる。
又いつから祀られているのか知る由もないが、これは『さやの神』と言って男性のシンボルが
奉納されている。私の地区にも『サヤノ谷』と言う地名があるが『さや』と言う語源には性神
的要素があるのだろうかと思う?
程なく行くと筑紫の市山家から来る道と交わる
次ぎの標識は近道、早道といった直線コースと緩やか蛇行道だ。それを登り越すと山頂が見えてくる。
毎年筑前町では初日の出ご来光を仰ぐイベントのおかげか?草も伸びてなくきれいです。
石段を踏み上がれば小さな祠があり、建御雷の神が祀られてある。それは茨城県、鹿島神宮の祭神を仰ぎ武運長久を神功皇后が祈ったものであろう。
今日の本来の目的は終戦を期に平和祈願として、私の父が植樹した『つげの木』と石碑を従兄弟にも知っていてほしかったのです。30年くらい前に家族揃ってここに石碑を建てに来たこと10㎏以上はあったと思われる石碑を背負って登って来た事を父の弟叔父の息子に知ってもらう為に
汗ばんだせなかも、おにぎりを2個食べ終わる頃は肌さむく感じました。
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