今朝は特に書きたいこともないし、何か面白そうなテーマを探し出してこようという気にもならない。
要するに惰眠をむさぼろうとする空っぽの頭を揺り動かして無理にでも働かせるのが億劫なだけなのだが、昨日、坐禅の帰りに立ち寄った禅寺の庭で何枚か写真を撮ったので、それでも並べてお茶を濁そうと思う。
こういう場合はやっぱり時系列で並べるのが無難だろう。
っていうか、無理にこじつけてストーリー性を優先してみるって手も無くはなさそうだが、それこそ面倒なので水は高い所から低いところに流れるように、自然のままに任せることにしたい。
最初は円覚寺黄梅院の門前の石垣にへばりついているユキノシタの群落。先週はまだ株の上の部分にしか花が咲いていなかったが1週間経つと高層団地の如く各階に〝住人〟が住みついて風に揺れている
(見出しの写真はわが家のヤマボウシ。別名ミルキー・ウェーとも…言い得て妙)
この花も黄梅院で見かけた。この咲き方を見るとどうもシャクナゲの1種らしい
先週はこういう状態で、はて? 何の花だろうと首を傾げたのだが、1週間たって実際の花を見てハハァ~ンと気付いた
これも黄梅院。実に涼しげで好ましい
曇り空の1日になると思っていたのに、坐禅が始まる8時前からグングン青空が広がっていって、また天気予報が外れた
円覚寺を出て横須賀線の線路を渡り県道に出て数十歩行くと東慶寺がある。
ゆっくりと山門に近づいていくと和服を着た急ぎ足の女性に追いこされた。
もしや縁切りを決意しての駆け込みか! と思ったのだが、まさか今は女性だって寺に駆け込まなくても裁判所に正面玄関から堂々と行けば離婚は成立する時代だ。
この女性は寺の縁者のようで、拝観料を取っていた人から「おはようございます」と丁寧なあいさつを受けて門をくぐっていった。
ちなみに寺のパンフレットによると「弘安8年(1285年)、北条時宗夫人の覚山志道尼が開創。女性の側から離婚できなかった封建時代、当寺に駆け込めば離婚できる女人救済の寺として、明治に至るまでの約600年間、縁切寺法を守ってきました」とある。
弘安8年といえば2度目の元寇である弘安の役の4年後だ。
この東慶寺は明治時代の円覚寺の管長で禅を欧米に知らしめた釈宗演老師が晩年に住職を務めた円覚寺派の寺で、釈宗演老師の縁でやはり欧米への禅の紹介・普及に生涯を尽くした鈴木大拙もここで晩年を過ごし、没している。
こじんまりした寺だが、季節季節に野の花が咲き、墓所には各界で活躍した人が多く眠っている。
円覚寺に参禅したことのある夏目漱石が後年、世話になった釈宗演老師を尋ねて東慶寺を訪れた際、門をくぐる前に立ち小便をしたのはこの山門前である。
ハナショウブの青紫と緑の取り合わせは清々しい
クレマチスにあらずしてテッセン
シランもこうして咲いていると風情ありげに見える
野菊の仲間か
この岸壁一面がイワタバコに覆われるのだが、まだ少し早すぎた
照葉の奥を覗いてみると
葉陰でつぼみが膨らんでいた。来週くらいからぼちぼち咲き出しそう
東慶寺はこのイワタバコの群落のほか、本堂裏手の岸壁に珍しいイワガラミの群落があって、これが咲く時(6月初旬~中旬)には本堂に上がらせてもらえる日がある。一見の価値はアリ
横田南嶺管長の前の前の円覚寺管長を務めた朝比奈宗源老師が住職を務めた浄智寺は東慶寺から数百歩離れた隣にある。鎌倉五山の第4位の名刹でボクの好きな寺の一つ
本堂はないが、本堂代わりに使われているかぎ型に曲がった茅葺屋根の書院が枯れた味をかもし、庭も手付かずの自然な野原を思わせる風情が漂い、全体があるがままの自然に溶け込んだような佇まいが気に入っている。
ただ、この庭を見詰めていて気付くことは、これは相当人の手によって維持されているんだな、ということ。
つまり草や花は勝手に咲いているように見えて、その実、雑草の類は1本も見当たらない。多分こまめに雑草は引き抜かれているに違いない。
自然の野原を演出しながら、ヒトの手でしっかり手入れされて景観を保っているということ…
この世の中の多くのものと同じで、見えないところでヒトは様々な努力を払うものなんですね。
…禅寺だもんな
あるがままとは言いつつ、何にでも「アヒルの水かき」がある…