文章は日頃思っていることをそのまま気取らずに書けば済むことで、何の苦痛も無いし、それ以外の苦労もない。
とにもかくにも、肝心なのはテーマ、テーマ、テーマ! それがすべてである。
ただテーマ探しは厄介で、誰かのセリフではないが、ぼぉ~っと生きているとホントになにも浮かばない。
何かないか、何かないかともがけばもがくほどぬかるみに足を取られ、ジタバタしているうちに底なし沼に引きづり込まれてしまいそうな感覚に襲われ、そうなるともがいたって泣き叫んだってどうにもならない。
テーマが見つからなければ書くのをやめればいいのだが、ボクの場合、それでは毎日書いているブログが年に数えるほどしか書けなくなってしまうだろう。
来る日も来る日も大したことを書いているわけでもないし、それで誰かが困るというわけでもないから、それまでの話だから往生際よく筆を置けばいいのだが、それは嫌だ。
毎日書くと決めたからには、どんなに深酒していたって早朝に起き出して書いてきたし、テーマが見つからないときには仕方なくパソコン回りの情景を描いたことだってあるし、登る朝日と空模様の夜明けの様子を描写したことだってある。
そうやって、何かを書き始めれさえすれば筆が勝手に動くことだって経験の内だし、急に何かがひらめくことだってあるのだ。
ボクがブログを書くにあたって表題を「平方録」としたのは、テーマが見つかりやすいように、そして日ごろぼぉ~っと生きることが無いよう、とにかく「へぇ~!」「ほぉ~!」っとびっくりしたり感心したりしながら生きていこうと思ったからにほかならない。
つまり、感性を鋭敏に保ちたいという、老境の入り口に立った男の抵抗する心の表れの一つと言ってよく、「何にも感じなぁ~い」などと、よだれを垂らしながら惚けることだけは絶対に御免なのだ。
毎日6時間程度の睡眠時間から日中の時間を算出すると実に18時間も起きているわけで、その間にたった一つの「へぇ~!」も「ほぉ~!」も無いということ自体、眠っているような人生と言わざるを得ず、もっときつく言えばボケ老人に等しいのである。
でも、現実には時としてそういう日が巡ってくることは大いに反省しなければならず、あの5歳児の叱咤は他人事でなく、わが身に深くしみるのである。
……と、テーマがないものだから無理やり書いてきたら、こんな反省文になってしまった。
でも、何とかマス目というものは埋まるものなのです、ネ!
では、今暁はこの辺りで……

円覚寺黄梅院の蹲に分厚そうな氷が張っていた

こちらも。わが家で昨日の朝5時の外気温を計ったら0.6度だったが、円覚寺のある北鎌倉の谷戸では氷点下まで下がったに違いない

一週間ぶりのフクジュソウがようやく開いていた=円覚寺居士林