平方録

早春賦とモーツアルトと初音

ようやく初音を聞いた。

昨日は北風の冷たい日だったが、午前中、用事を済ませるために外出し、風を避けるために丘の際に沿って曲がりくねる小道をたどっている時だった。
風の音に混じって「ホーホケキョ。ケキョ ケキョ」という懐かしい声が耳に届いてきた。
それほどたどたどしくもなく、ちょっと慣れた感じにも聞こえたから、しばらく前から鳴き始めていたものと思われる。

かつて、ウグイスのすみかには格好の藪を持った小山がわが家のすぐ近くにあった頃は、立春のころから寝床で耳にしたものだが、宅地開発されてしまってからは2月も中下旬を過ぎないと聞かれなくなってしまったのである。
あとひと月もすれば春分の日だし、季節は着実に春本番に近づいているようだ。こうして何気ない日常に季節の着実な歩みを実感することは、ささやかだけれど嬉しいことなのだ。

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

唱歌の「早春賦」だが、この歌は歌詞と共に大好きである。
特に今ごろの季節に聞くのがピッタリくる歌で、じーんとするほどである。

氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時とぞ 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

「つのぐむ」とは「角ぐむ」と書き、アシなどが芽吹くことをいう。
アシも芽吹き始めてきて、さあ春が来たと思いきや、思いとは裏腹にどんより曇った空からは雪がちらついてくる切なさなのだ。

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃

実際には冬景色が広がっていて春だとは思いもしないが、「暦の上では春ですよ」と聞かされれば春が待ち遠しくてしょうがない。この待ち焦がれる思いはどうしたらよいのか分からないくらいだ。

東京音楽学校の教授をしていた吉丸一昌という人の詩で、大正のはじめころに長野県安曇野を訪れた際に雪解けの風景に感銘を受けて作詞したものらしい。
どおりで景色の広がりも心のうちも、春を待ちこがれる実感のこもった詩になっているわけである。

中田章という人の作曲だが、このメロディーはモーツアルトが子供向けの歌曲として作曲した「春への憧れ」と、とてもよく似ていて驚かされる。
モーツアルトから曲想を得たのだろう。
モーツアルト自身、そもそもピアノ協奏曲27番の第3楽章からの転用らしいが、どおりで懐かしいわけである。
27番は23番などともに時々CDで聞いているので、そうだったのか ! 早春賦はそこにつながっていたんだ ! という思いである。

春に絡んだクラシックでもう一つ。
ベートーベンにバイオリンソナタ第5番「春」という曲がある。この曲は2000年に頭の大手術をして生還した時、集中治療室に戻ってきて意識が戻った時にすぐにかけてもらったほど気に入っていて、思い出深い曲である。
暗く沈みがちな冬を経て、明るく伸び伸びと、浮き立つような気持が広がっていくメロディーがいかにもうきうきしたような曲想で表現される。
同時に涙がこぼれそうになるのは、大病を背負いながら聞き入っていたことと無縁ではないかもしれない。

ベートーベンの中では、このバイオリンソナタと交響曲第6番の「田園」が好きでよく聞いていたが、ひょんなことから「田園」は「春」を下敷きにしていると聞いて、あぁ、なるほど ! と痛く感心した覚えがある。
そういえば音楽家も画家も同じモチーフを角度を変えて何度も表現することがあるから、兄弟姉妹が生まれるのも当然なんである。
そこから、いとこやはとこが生まれてくるのも当然と言えば当然なのかもしれない。



円覚寺居士林裏手の階段付近の日辺りの良い崖ではイワタバコが芽吹き始めていた。
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