さすがに路面はまだしっかり濡れていたので、自転車はあきらめて妻に車で送ってもらい、円覚寺の日曜座禅会に出かけた。
午前8時の開門より15分も前に総門前に着いてしまい、1番乗りだった。
奇数日曜日は禅宗の経典のひとつ「伝心法要」を横田南嶺管長が解説してくれるのを、坐禅を組みながら聞く日である。
この日の話の中心は「見性成仏」。
ケンショウ ジョウブツと読み、「直指人心」(ジキシ ニンシン)と対語のようになって使われることの多い、禅宗の教えの中で最も重要とされる教えである。
「直指」とは文字や言葉などによらないで直接的に指し示すこと。「人心」とは感情的な心ではなく、自分の心の奥底に存在する仏になる可能性を持つ、本性、本心、仏心、仏性のこと。
したがって「直指人心」とは、自分の奥底にある心を凝視して本当の自分、すなわち仏心、仏性をしっかり把握することだという。
この仏心、仏性は誰もが例外なく、生まれながらに持っているものだが、ひとは大概そのことに気づいていないのだそうだ。
その存在をしっかり見つめよ、という事なのである。
そして「見性成仏」。
「見性」の「見」とは、ただ物を対象的に見るのではなく、そのものになり切って、一体、一枚になること。「性」は直指人心のことで、仏心仏性のこと。
「成仏」は世間でいう死ぬことではなく、仏陀(覚者)になること、悟った人間になること。
すなわち「見性成仏」とは自分の奥底に存在する仏心仏性になりきってみよ、ということだそうである。
人は迷いや悩みがあると、その解決方法を求めてあちこちウロウロと求めさまようのが常だが、禅の世界では「他に求めるのではなく、自分の心に直接問いかけて自分の本当の姿、仏心仏性を看て取れ」と言う。横田管長の話には表現や例を変えながら、繰り返し繰り返し登場する。
言いかえれば「直指人心 見性成仏」以外に、禅の悟りに至る道はないということになるわけである。
こういうありがたい話を聞いた後の凡人はと言えば、「う~む」と深く感動しつつ、総門を出て数歩歩けば、もう何事もなかったように俗世間にスーッと溶け込んでいくのである。
ただ、少ぉ~し残るんですな。「今こうして歩いている自分は何者であるのか。よぉ~く見つめてごらんなさい。例えば、何かに怒っている自分がいたら、どうして怒っているのか、何にそんなに怒っているのか、よぉ~く見つめてごらんなさい。そこから始まります」と繰り返す横田管長の話が。
結局「直指人心 見性成仏」の意味するところはなんとなくわかるのだけれど、じゃぁどうやったらそうなれるのサ、というところが問題なんである。だから坐禅…、事はそう簡単には運ばないんである。
ところで、先日来、早春の旬のサヨリの刺し身が食べたくて、帰り道ターミナル駅周辺の魚屋3軒をのぞいてみたがどこにも姿はない。
ならば直接漁港にと、家に戻って車を走らせたが、三浦半島に向かう海沿いの道路は乗用車の列で駐車場状態。呆れて早々に引き返してきた。
みんな、一斉に走り出しちゃって、どうしちゃったんだろう。春なのかなぁ。
日曜座禅会が開かれた円覚寺居士林の庭のウメが満開になっていた。
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