あれは今から27年前の昨日(10月8日)の事だった。
目的地である高知県の西の端、予土線の江川崎にはどうしても午後2時ころには到着したかった。
新横浜を早朝に発ち、岡山までは新幹線、岡山からは瀬戸大橋を渡って土讃線の特急、窪川で特急を降りて予土線に乗り換える。
予土線はいくつかのトンネルを潜り抜けると1本の川と出合う。
その川に沿って付かず離れず列車は下ってゆく。
江川崎というのはその川の中流域に位置し、川はそこから予土線と離れて南に向かい、折り重なる山の中を蛇行しながら太平洋を目指すのである。
担いできたテントと折り畳み式カヌーを携えてテントを張るための河原に下りた時、ボクはいささか呆然とし、ひょっとして無鉄砲なことをしようとしているんじゃないかと、いささか怖気づいた。
というのも、直前まで出発するか否かためらわされていた2つの台風が予報に反して急に速度を上げて日本列島を通過したので、「よしっ !」これなら何とか計画通りいけそうだなと思って家を出てきたのだ。が、しかし…
川の流れを間近に見た途端、黒々と盛り上がり、得体の知れない生き物が体をくねらせているようにも見える水量と勢いにすっかり足がすくんでしまった。
こんな川にちっぽけなカヌーを浮かべて、たった一人で河口まで下って行けるのか…
それまで海でしか漕いだことはなかったのだ。
三角波などは歯が立たないにしても、多少のうねりくらいなら何とか乗り切ってきた。でも川には流れがある。第一川を下るのはその時が初めてだった。
そしてボクが漕ぐ流域には荒瀬がないということも知っていた。
でも、それは水量が少ない時の話で、台風通過直後の増水した川とは条件が全く異なる。
そのことに考慮が及ばないまま、旅立ってきてしまったことを後悔した。
これは歯が立たないとも思った。
一晩この河原で過ごして翌日、すごすごと帰るか…
その時、少し離れた河原でテントの設営を始めた5、6人のグループが目に入った。
彼らが設営を終えて火を焚き始めたころを見計らって話しかけたのだ。
どこからですかと聞くと「東京の立川から」という。
「何度もこの川を ?」と聞くと2人は何度か来ているがその他は初体験だという。
それでピンときた。
このグループの初心者の後ろから付いていけば何とかなるかも…
「ボクも初めてなんですが、邪魔にならないように後からついていってもかまいませんか」と聞くと、「この先にはちょっとした瀬があるし、一人じゃ心細いでしょう。どうぞどうぞ、おやすい御用だ」という。
こういうのを渡りにフネという。ボクは胸をなでおろした。
かくして、ボクの念願だった「四万十川下り」がスタートを切ることになったのだ。
江川崎の河原の空は左右の山が迫っていて、けっして広い空とは言えなかったが、その晩、見える範囲は無数の星が瞬き、明日からの台風一過の晴天を約束してくれていた。
初体験の川下りの中身は濃厚で、あれもこれもと、書きたいことは河原で見上げた星の数ほどあるが、いちいち書き連ねては天の川ほどにも長くなりそうだから泣く泣く割愛するとして、ちょっとだけ旅の動機を書いておく。
これは勤務先が2、3年前に導入した勤続20年の特典で「休暇1週間、現金20万円をやるから垢をとってこい、報告書はいらない」という当時としては粋な計らいで、先輩の中には寄席に通い詰めた落語好きもいたりして、気の利いた奴は「へぇ~」というような使い方をしていたのだ。
ボクは立てた計画が突然の解散総選挙に邪魔された。総選挙を吹っ飛ばしてさすがにのんびり垢落としとはいかず、その後2か月半も休みが1日も無く働きづめを余儀なくされて、もう爆発しそうになっていた。
選挙報道の責任者の1人だったから致し方ないのだ。
当時は働き方改革なんて毛筋ほども話題にならなかった。
そして投開票も終わり、その後の展開も見えたころを見計らって、とにかくこのチャンスを逃したら2度とチャンスは巡ってこないだろうと、多少の無理には目をつぶって飛び出してきたのだ。
今更ながら懐かしい。
あの時、同時にカナダのユーコン川も下りたいと無謀なことを考えていた。
しかし、そもそも1週間や10日で行って帰って来られる所ではなかった。
屈斜路湖から出発して釧路川をたどり釧路湿原を漕ぎたいとも思った。
四万十川はその後2度ほど下ったが、それ以外は計画倒れでたなざらしのまま放置されている。
あれから様々な起伏を経て、もうすでに30年近い歳月が流れようとしている。自由に使える時間もたっぷりある。
あと何年、そこそこの体力を維持し続けられるだろうか。
忸怩たる思いが時々、頭をよぎる。
(見出し写真は近所の花畑で)