毎年正月に行われている全国高等学校サッカー選手権大会に7つ年下の世代が部創設以来初めて出場したのは1973年1月3日の事である。
大阪の長居競技場で開会式が行われ、直後の開幕戦にわが母校は登場する。
もちろん、ボクも応援に駆け付け、スタンドから声援を送った。
結果は相手の8番1人に何と5得点を許してしまい、反撃も2点どまりで残念ながら敗退するのだが、県大会では強豪の相模工大付属を破り、コマを進めた西関東大会ではこれまた全国に名を轟かせていた韮崎工を延長でも決着がつかず、再延長の末に下して全国大会出場を果たしたのだった。
これは誰も予想していなかったことで、進学校の快進撃はちょっとした話題になった。
それまで、大会と言えばせいぜい3回戦まで進むのが関の山だったのが、なぜだか突然変異のように強くなり、トーナメントを勝ち上がって行ったのだった。
「大物食い」…ジャイアントキリングと言うが、まさに1度ならず2度までも奇跡のようなジャイアントキリングを成し遂げた後輩たちの、そのハイライトとも言うべき韮崎工戦を甲府の競技場から伝えたのは、誰あろう入社1年目のボクだったのである。
その新聞記事は今でも大切に保存され、連中の輝ける勲章を彩る「証文」のような存在として額に入れられている。
あれから50年。
当時のサッカー部員たちを中心に出場50周年の記念祝賀会をやろうじゃないかという機運が高まり、昨日その祝賀会が開かれ、ボクも招かれて出席して当時の思い出をしゃべってきた。
あの時、ボクは入社してまだ1年目で記者活動はさせてもらえず、内勤で仕事を覚える過程にいた。
だから取材で出かけたわけではなかった。
母校が全国大会出場校を決める試合に出場することを知ったが、とても勝ち目はない。しかし「そこまでよく頑張ってたどり着いたものだ。死に水は取ってやろうじゃないか」と言う気になって、当時のチームメートを誘って出かけたのである。
出掛ける前に当時の運動部長に「応援してきます」と伝えたら、「物好きだな、まぁ勝ち目はないぞ」と言われ、こちらのその通りだろうなと納得した。
そして思いがけないことを言われもした。
「その日は県内の各種競技が目白押しで、甲府まで記者を派遣する余裕がない。どうせ勝てっこないし、幸いテレビ中継があるから、それを見ながら敗戦記事を書かせる。万が一は無いだろうが、その万が一があったら、オマエさんに頼むとするよ」と笑い飛ばされた。
当時の高校生の試合は35分ハーフ。
選手点は取られたがその後追いつき、70分が経過して2-2の同点。延長戦に突入した。
その延長線で決着がつかず、当時はまだPK戦は採用されていなくて、再延長となった。
相手が足を引きずり、けいれんさせてバタバタ倒れる中、我後輩たちは信じられない走力を見せて走り勝ち、ついに再延長後半に決勝点をもぎ取って奇跡の大逆転勝利を挙げるのである。
それからが、ボクに取って青天の霹靂だった。
とりあえず本社の運動部長に連絡を入れると、裏返ったような声で「再延長の末に逆転勝ちだとぉ!」と裏返った声で言い、「テレビ中継は打ち切られちゃったんだ。お前書けっ!」。
「書いたことありません」と伝えても「いいから書けっ!」。
「甲府の駅前に山梨日日新聞社があるからそこに行って共同通信の甲府支局の原稿用紙とFAXを借りて原稿を送れ。急げ!」と無茶苦茶なことを言う。
この辺で止めておくが、悪戦苦闘の末、何とか見たことを書き連ねられたのはアドレナリンのお陰だろうと思う。
この試合の一部始終を見届けていたのはボクしかいない…ボクが書かないで誰が書ける…脂汗を流しながら、何度も書き直してぐちゃぐちゃになった原稿を送り終えた時は既にとっぷり暮れていた。
翌日の運動面のトップ記事こそ、ボクが新聞社に入社して初めて書いた記事であり、社会の出来事や政治の世界を追い続けた身にとって唯一無二の運動記事なのである。
その後輩たちから50年を経て声がかかるという僥倖。
不思議なえにしを感じつつ、感慨深さはひとしおでありました。
(思い出話はあれもこれもと欲張りがちになり、読み手にはなんのことか通じにくい面もあるだろう。そこを何とかするのが筆力ってものだろうが、独りよがりの下手くそな文章になってしまった。まだまだ書き足りないのだが…。半世紀を経た感激に免じてお許しを)
最期は佐々木信綱作詞、山田耕作作曲の旧校歌を合唱