だらしなくなりつつあるなぁ、と。
自分自身では自分の性格を「やや几帳面」だと思ってきた。
「やや」をくっつけたのは、それほど四角四面の几帳面さというより、傾向としては几帳面という部分がより表面に出ているのかな、という程度の意味合いである。
したがって、机の上の書類や卓上カレンダーなどが少しひん曲がって置かれていてもあまり気にしない方だが、机の上が本やら書類やらその他雑多なものでごちゃごちゃになっているのは好まない。
そういう訳だから本当に几帳面な人種から見れば「何とだらしない! 」と見られるだろうし、几帳面でない奴からすれば「あいつは俺たちを裏切って几帳面に走る裏切り者」ということになる。
その結果、どちらからも相手にされない半端な部類の性格と言うことも出来る。
ただ一つはっきりしていることは、最初に書いたとおり、自分ではややが付こうがどうしようが「几帳面」だと思っている点である。
そこに最近変化がみられるのだ。
自覚できる程に几帳面さが姿を消して「だらしなく」なってきつつあることである。
もしかすると「来つつある」なんて悠長なことは言っていられないのかもしれない。
一例を挙げると1階リビングの食卓の上に読みかけの雑誌や本、届いた手紙の類などがうず高く積みあがっているのだ。
さらに2階のパソコンを置いてある部屋の机の上も同様で、こちらにも読みかけの本や読みもしないまま本箱から引っ張り出してきて放置している本が乱雑に積み上げられ、あるいはネットを使って調べてそれを印刷した紙が散乱しているのだ。
加えて飲みかけの水の入ったペットボトル、何本かのペン、孫の写真を入れた写真盾、卓上カレンダー、時々手慰みに遊んでいるハンドスピナー、ティッシュの箱…
同じ2階の一隅には3畳の狭いスペースながら2つの壁面に天井までの本箱を背負った書斎があって、ここの机の上は山盛りのガラクタで埋まって物置小屋同然になってしまっているんである。
つまりボクにとっての居場所と云うベキ3か所がことごとく「だらしない状況」になっているんである。
これまでにもこういう現象が全くなかったわけではない。
一瞬でも、こういう状態が出現することがあるにはあったのだ。しかし、それが今と違うのは、すぐに気付き、気付けば直ちにきれいな元の状態に復していたんである。
今は「ああ、山が出来ちゃったな」くらいにしか感じない。感じないからそのまま放置する。するとまたすぐにその上に新たなものを放置して山はどんどん高くなってゆく。
今まで見過ごせなかったことが平気になってきてしまっている!
これは一大事なんではなかろうか。
「だらしのないジジイ」丸出しではないか?
――と、そう思うのだが、今後どうなってゆくのか自分でも見当が付かない。
ひょっとして、足を引きずり、口の端からよだれを垂れ流し、目じりに目ヤニをためて……、あぁ~っ、ヤダヤダ!
しばらく推移を見守る考えだが、こういう場合も人間観察って言えるんだろうか。
昨日の円覚寺日曜坐禅会の帰り道に見つけた「みのり」から…
我が家近くの丘のツルウメモドキ
ボケちゃったけれどニシキギは居士林裏の龍隠庵で
北鎌倉の緑地で見かけたのはヒヨドリショウマ。極小のマイクロトマトのようなみずみずしい実が晩秋の日の光に輝いてきれいだった
同じ緑地のスズメウリ
道路際の斜面などに絡んでいたムカゴを採ってきた。今朝はムカゴご飯が炊けているはず
わが家のつるバラ「伽羅奢」のローズヒップ。実をつけさせたのは初めてで来年の花付きに悪い影響がないか、ちょっと心配
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