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平方録

「凡」の字の仲良し

冬になると〝コタツのシミ〟になることが少なからずある。

わが家のコタツは居間兼食堂のフローリングの床に切ってある掘りゴタツで、普段は大きめのダイニングテーブルのところで食事以外も新聞を読んだりテレビを見たりして過ごすが、太陽の明るい光が射さないような、どんよりして寒々とした日など動き回る気にもなれないような日はここにもぐりこむのが一番いい。
暖房は壁掛け式のエアコンと2ブロックに区切った床暖房を使っていて、フルに稼働させると相当に暖かいが、長時間点けっぱなしにすればそこそこのコストはかかるわけで、その点、コタツは経済的でもあるのだ。

ここにもぐりこむには作法? というものがあって、まずは必要最低限のものを手の届く範囲にそろえてからもぐりこむのを必須とするという点である。
これを怠ると、どっこいしょと掛け声をかけながら、ぬくぬく温まったコタツから冷えた空気に身をさらしつつ、いちいち取りにいかなければならない。
出ようか出まいか迷っているところに妻が通りかかったりすれば座ったまま「アッ、どれそれを取ってよ」などと指図に近いお願いをしてヒンシュクを買うもこういう時である。
だから、飲み物を入れたマグカップ、ティッシュペーパー箱ごと、携帯電話、パソコン代わりのipad、メモ用紙と筆記具、読みかけの本数冊、その日の朝刊、テレビのリモコン…辺りは必須だろう。

かくして妻は怠惰の象徴のような半分白い目でボクを見ているようだが、そこがオンナという生き物のアカサカミツケなところで、本質を見ようとしない。
掘りゴタツを切ってある居間兼食堂には全面ガラスの大きな4枚の引き戸が部屋の幅いっぱいにはまっている。
ここにはロールカーテン状のものが備えてあって、これを下ろすと障子を閉めたように見える。
しかし障子と違うのは部屋の中からは外が見えるのに対して、外から部屋の内部は見えないようになっている点だ。
だから締め切っていても外の様子は難なくわかる。
床から数十センチのところまで降ろせば、コタツに座っている分には雪見障子の体を成すわけで、なかなかオツである。
時々やって来るシジュウカラとかジョウビタキなどの小鳥の姿も相手からほとんど警戒されずに眺めることができるというものだ。

新聞や本を読んで少し疲れると、目を外にやりさえすれば雪見障子の外の静謐な世界…自然あふれる光景にすぐ浸れるわけで、多くの文豪や思想家たちの書斎のありようと言うものにも相通じる部分ではないかと思っている。
もっともボクの場合は冬のごく限られた一時だけ、そういう環境に浸るだけなものだから非凡な方たちとは縁のない、ただただ「凡」の字の仲良しであるところが大きな違いである。

普段はこういう状況に身を置く場合、必ず音楽を流し、耳を傾けつつ活字を読み、たまには考え事もするのだが、肝心のステレオのスピーカーの音が割れ、あるいはかすれ、誠に耳触りである。
今朝はむしろそのことを書こうと思ったのに、状況説明が饒舌に過ぎてしまった。
音割れについては次の機会に譲ろうと思う。


近所の池のある公園まで散歩に行ったらひだまりにはカタバミが元気に咲いていた

隣にはオオイヌノフグリ


陽だまりの崖下にはスイセンの群落が出来ていた…

この黄色い実は何だろう
たくさん残っているところを見ると美味しくないのかもしれない
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