平方録

言論が危うい

新聞休刊日の朝というのは手持無沙汰である。
届けられたばかりの新聞を広げるという、ごくありふれたことが特定の1日の朝だけできないというだけのことなのだが、人間という生き物には好奇心とか、周囲で何か変わったことでも起きてやしないか、と言った本能的な警戒心のようなものがしみついているためだろうと思うが、それがいつもの方法で確かめられないのだから、一種の不安のような感情が湧いてくるのも無理からぬことである。
というのが、ほんの少し前までの大方の日本人の気持ちだったように思うが、それもまた今は昔になってしまったというべきか。

最近の若者が新聞を読まなくなったというのは、自分の周辺に対する警戒心を持たなくなった、持たなくても暮らせるようになったとも捕えられるかもしれない。
理由はいろいろあるんだろうが、社会に対して特段の警戒心を払わなくても何とか食べ物にはありつける時代だし、さして欲張らなければ社会の片隅で勝手気ままに暮らせていけるようだから、それで十分なんだろう。
望むと望まざるとにかかわらず、そうした境遇に一旦身を寄せてしまえば、そこから抜け出して、もう少し豊かな暮らしをしたいと願ってもそう簡単にはいかないのが世の常である。世の中甘くないぞ、というのはその辺りを指しているわけである。
それが昨今の現状であり、格差社会を産み、若者をして結婚も出来ないような状態に追い込んでいるんである。

企業はいつの間にか「非正規社員」という、安価なお金さえ渡せば人を雇用できるという、富の分配の偏りを許してしまう制度を手に入れたし、これまで社会を支えてきた労働力が一斉に退職する時期に及んでは、医療費や社会保障費の増額が避けれれないと見るや、国はそのいずれについても大幅な削減を打ち出し、平然とそれを実施に移しているではないか。
私を含めた団塊の世代は今後、老人ホームに入りたくても入れず、身体の具合が悪くなって入院治療が必要になっても、昔ほどの低料金では治療してもらえず、ベッド数にも限りがあって、さっさと退院させられるようになる。

しかも、そういう若者や老人たちの不満がまとまらないうちに、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という3大特徴を持つ現在の日本国憲法をないがしろにして、明治憲法の時代に戻してしまおうという時代錯誤の憲法改正を現政権が画策するのも、世の中で何が起こっているのか、起こりかけているのかということに関心を払って注意深く見詰めている国民が減ってしまったためである。
国民が社会に対して無関心なのをよいことに、鬼の居ぬ間の何とやら、権力者が自由気ままにふるまえる世の中に作り変えてしまおうとしているのである。

新聞の中には、そういう社会の実現を後押ししているところもあり、言論界こぞってこの3つの特徴を守ろうという方向に向かわないところなんぞは、言論の世界にも劣化現象が忍び寄ってきている一つの証左でもある。
誤報騒ぎを起こして世間に謝罪しなければならなかった新聞もあったし、情けない限りだ。

ただ、地方に根を張っている新聞社の言論は、権力者の間近で権力の蜜の匂いを嗅ぎながら作っている在京の新聞と違って、文字通りの距離感の差もあって、もう少し冷静な目をもって世の中を見ているところが垣間見え、劣化の度合いはまだ軽めなところが、せめてもの救いである。
何事にもよらず「距離感」というものは大切であり、その間合いを計るには工夫も意思も必要である。
言論が危うい世の中になってきているんである。




横浜イングリッシュガーデンのクリスマスローズ
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