平方録

初めてのツアー その2

正直言ってボクは明治の群像というものに興味がない。

むしろ明治維新を推進したのが日本に初めて武家政権を打ち立てた源頼朝ゆかりの武士たちだったことに着目するくらいだ。
すなわち頼朝の命によって、それぞれ鎌倉から遠く離れ幕府の目が行き届かない地の経営と地域の監視を託された「大江」と「島津」の家来たちだったという点である。
大江は「毛利」と名を改めたが、これは神奈川県厚木市近郊の毛利という地を所領していたことに由来する。

ごく大ざっぱに言えば、明治維新とは頼朝が公家政権による閉塞した社会状況を打ち破ろうとして起こした革命のDNAがそのまま引き継がれている、ということなんじゃないかと思うのだ。

だから、大きな歴史の潮流というものは感じても個別の人間には興味が届かないということでもある。
一人ひとりを調べるならば、それぞれきっと魅力的な人物なんだろうなとは思うが、そこ止まりなのだ。
逆に「彼らたちこそ日本の伝統的な考え方を体現しつつ列強に比肩するまでに日本の国力を高めた偉人たちであり、列強の植民地支配から日本を救った恩人たちであり、今こそ彼らの精神に立ち戻るべきである」などと、右寄りの考えを持つ人々が声高に叫べば叫ぶほど、距離を置きたくなるのだ。

今また政府の音頭で「明治150年」が強調されているのを見聞きして、またぞろ感が先に立つ。
維新の若き群像たちはもっと純粋だったはずだ、と。

それ故に萩という町が今でも江戸時代の空気を残した良い町だと聞いても、なかなか言ってみようという積極的な気持ちが起きなかったのだ。
今回は義母の出自をたどる青海島を訪ねる目的で選んだ「ツアー」の一旅程で訪れたというわけである。



萩で最初に訪れたのは「恵美須ケ鼻造船所跡」。アメリカやロシアの艦隊の出現に驚いた長州藩は対抗できる軍艦づくりに着手する。「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産登録された


造船所跡からは城が置かれた指月山(画面中央のピラミッドの形をした山)がよく見える。この時「狐の嫁入り」が現れてしばらく冷たい雨に降り込められ、ツアー客は慌ててバスまで傘を取りに戻らされる


ついで訪れたのは同じく世界遺産登録された「萩反射炉」


完成はしたが、ここでつくられる鉄で目論んだ大砲づくりには結びつかず、実験炉で役目を終えている
しかし、自力で列強に対抗できる軍事力を整備しようとした危機意識には並々ならぬものを感じざるを得ない


松下村塾


松下村塾全景


講義室


吉田松陰の生家


松陰を祀る松陰神社


この字は岸信介のものだという。アベなんちゃらの爺さんである。だから嫌なんだ! 松陰サンに恨みはないが…


伊藤博文が父母共々養子として迎えられた伊藤家


生家脇に建つ博文像。かつては青銅製の立派なものが立っていたというが、戦時中に大砲の弾用に供出され、戦後に萩焼で作られた陶器の像で、なんとも可愛らしい


品川にあった贅を尽くした伊藤家別邸が隣に移築されていた


今も残り、世界遺産登録された萩城下の武家屋敷の佇まい


木戸孝允旧宅の樹齢350年の松






萩藩御用を勤めた豪商・菊谷家住宅は重要文化財。この蔵に面した道は「道百選」に選ばれている


庭園が期間限定で公開されていた


道百選の端に建つこの珍しい木製電柱は、高さが足りなくなったと見えて途中で継ぎ足しされている!


道百選の道


高杉晋作旧宅の碑が建つが、敷地はすでに細分化されてしまっていて往時の面影はないそうだ
木戸や高杉が中級武士で城に近いところに暮らしていたのに対して、松陰や博文は川を隔てた遠くて辺鄙なところに暮らしていて、その身分差は歴然としているところが興味深い


出発直後は山口市内の中原中也記念館に立ち寄った


何と墓にまで連れていかれた。中也の詩は教科書で読んだくらいで覚えていない。30歳の若さで亡くなっている


宿の夕食はフグづくし!
久しぶりにひれ酒を楽しませてもたった
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