インタビューで涙を流すのかと思ったら、終始、実にいい笑顔で、本当にうれしそうな笑顔がはじけていて、さらに良かった。
去年のどこ場所か忘れたが、負ければ大関陥落という千秋楽で何とか8勝目を挙げて八百長じゃないのかと疑っていたが、あれよあれよの快進撃。いったい何があったのかと思いきや、何とかの蔭には女あり。
優勝賜杯を抱く琴奨菊の脇でこれまたニコニコしているおかみさんが美人で、まさに“あげまん”てやつですな。
まあ絵にかいたような両手に花、とにかくオメデトウ。
昨日は円覚寺の日曜説教座禅会。
当然、普段通り寒風を切り裂いて自転車で行くつもりにしていたが、何と朝の気温が0・8度という目を疑うよううな冷え込みに怖気づいてしまい、妻に車で送ってもらった。
風を巻き起こして走れば体感温度は氷点下の寒さだろうし、我ながら情けない気もするが、ジジイになったものである。
この日の説教は管長の横田南嶺老師ではなく、円覚寺派の末寺の和尚。
話は禅語の「八面起清風」の話。
八面清風を起こすとは何ぞやだが、八面は四方八方の意で、周囲のあちこちから心地よく清々しい風が吹いてくる、くらいの意味である。風はもちろん「心の風」のこと。
この語の前に「両頭共坐断」がついて対になるんだそうな。
両頭とは、例えば生と死、善と悪、得と失、愛と憎、苦と楽、喜と悲、勝と負などのように両極に分けられるものを指すんだそうで、この両極端のはざまで一喜一憂し、右往左往しているのが我ら凡夫なんだそうな。まァ、いわれなくてもその通りですナ。
すべての悩み苦しみはこの両頭の狭間から生じるているらしい。
そこで坐禅をして、この苦しみ悩みを断ち切ることができれば、心にすがすがしい風が吹きわたる、ということなんだそうな。
断ち切るったって、凡夫にとってはそれが出来れば凡夫じゃあないわけで、簡単に出来るわけがない。
で、さすがに研さんを積んだ坊さんはその辺りはとっくに承知で、悩みは悩み、苦しみは苦しみとしてとりあえず付き合ってみてください、逃げるでもなく、悲しい時は悲しみ、辛い時は辛くてもしばらく我慢を続ける、そうすればいずれそれらの悲しみや辛さも失せていくものです。
よもや、こうなったのはあいつのせいだとか、もしあれがああなっていたら今頃は、などと人を恨んだり、くよくよ思い悩んだって何の解決にもなりはしないばかりか、己の心はどんどん腐っていく、と。
だから皆さん、つまらないこだわりは捨てて、ありのままを受け入れ、心に清風を起こすように努めましょう、と言うのが趣旨であった。
しかし、言葉で理解できても、実際はなかなかそううまくは断ち切れるものではない。だから、坐禅なんぞに通ってみたりするんである。
金剛経に「応無所住而生其心」という一節がある。
おうむしょじゅう にしょうごしん――と読むが、応無所住は「どこにも住しない。心が空っぽの状態で、面白いといって笑い、悲しいからと泣く。執着を捨て、ありのままを貫くこと」。
而生其心は「心を空っぽにすることによって、何物にも囚われない心、すなわち仏心を生じさせなければならない」。
花が美しいのは新しいからで、古い花は咲いていない。昨日の花はやり直しをしない。山の谷川の水が美しいのは、絶えず新しい水が流れていくからで、われわれの心も常に新しい心が出てくれば、泣こうが笑おうが怒ろうが、それが仏の心だそうで、子供は比較的そういう心なんだそうな。
「何物にも囚われない心を持って、与えられたところに従い、然(しか)あるがままにふるまう」
20数年来、執着心を捨て、何事も自然に受け入れられるように心掛けてきたんである。まだまだですなぁ。
さて、満月が西の空で冴え冴えと光っている午前4時、いつもの通り起きだしてブログを書く前に、試しに温度計をベランダに出しておいたら何とマイナス4・6度とデジタル表示された。
鎌倉はいつの間にか緯度を北に変えたらしい。こいつはびっくりポンである。
梅は咲いていても円覚寺の境内は切れるような寒さに包まれていた
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