横浜港の人気のない運河沿いの一角に1台の古びたバスが止まっていた。
運河にははしけが浮かび、バスは周囲に積まれたコンテナなどに目隠しされていて、外から見てもわからないような、港湾関係者しか縁のない場所にあったから、そこがバスを改造したバーになっているということに気付く人はよほどのへそ曲がりか、世をはかなんで運河から身を投げて死んでしまおうと思ってさまよう自殺志願者ぐらいしかいなかったと思う。
そもそも普通の市民が近づくような場所ではなかったし、タクシーで近くまで行くしかないくらいの〝人里離れた〟秘密の場所にあったのだ。
そう言う怪しげな雰囲気が気に入って現役時代からよく通ったのだが、岸壁の不法占拠状態が続いていたためついに港湾管理者から立ち退きを迫られ、あわや行き場を失うところだったが、口をきく人があってオフィス街のすぐ裏手の横浜港の人気スポットに近い運河沿いに引っ越したのだった。
この場所は県警本部のすぐ隣という立地もあって、アウトローの匂いのした以前の場所から比べると、いきなり日なたに連れ出された闇を好むコウモリが居心地悪がるのと同じで、ボクはあまり好きになれなかったが、雰囲気はそれなりに残ってはいた。
しかも、以前と違って人目につきやすい場所に出てきてしまったため、人の知れるところとなったのも事実で、そうなると秘密性やら隠れ家的雰囲気というものは失われて行くものだ。
そんなこともあって、リタイアと同時にこのバスバーからは足が遠のいていたのだが、昨夜、妻と夜遊びのついでに立ち寄ってみた。
ところが、歳月というものは人を待たないというが、やっぱりそれは本当で、濃いブルーに塗られたバスの姿はどこにもなく、バスがあった場所一帯はTimesに変わってしまっていて水銀灯の光りが駐車中の車を明るく照らしていたのには驚かされた。
ヨコハマの街から次々と懐かしいものが消えて行ってしまっているのだが、あのバスバーだけは消えて欲しくなかった。
もしやどこかにバスを移動してほかで営業してやしないかと、オーナーの携帯電話に電話してみたのだが、応答はなかった。
仕方なく立ち寄ったホテルのバーのカウンターに座りバーテンに聞いてみた。
そのバーからはバスバーがあった岸壁が見えるのだが、なんとそのバーテンはさすがに同業者だけあって比較的消息を知っていて、1,2年前にあの場所から消えたこと、バスは売られ、買った人は伊豆のどこやらでバーを開いているらしいこと、肝心の元のバスバーのオーナーは根岸あたりに移って別な形で営業を始めたらしいけどまだ行ったことはない、などなどを教えてくれた。
さすがは蛇の道は蛇である。
気が向いたら根岸の新天地にも行ってみたいと思うのだが、電話が通じるかどうか…
その前に世間のアカがすっかり落ちてしまっているボクに、不良の匂いを取り戻さないと格好がつかないようにも思うのだ。
それができるかどうか…
「ジャックナイフ」——バスバーはそう呼ばれ、某新聞社が発行した「全国のバー百選」にも載っている名店なのだ。
ただ、他の99店がきちんと住所が載っているのに、ここだけは住所の欄が空白だったのが印象的だった。
読んで興味を持った人は自分の足で探さなければならなかったのだ。
その本を引っ張り出そうとして書斎の書棚を探してみたが、真剣に探さなかったこともあるが見つからなかった。
改めて探し直そうと思うが、目の前から記憶のうちに仕舞ったはずのものがどんどん消えて行く。
「パリ」「チェッカーズ」「ケーブルカー」、相生町の「R」などなど、ヨコハマのいいバーもまた然り。
わが家に咲いている名も知れぬ花
水もやらない 肥料もやらない 何にもやらないのに なぜかよく咲いてくれる不思議な花…
見出し写真はバンコク橋の上から見たみなとみらい21の夜景