ブログを書く時、あらかじめテーマを決めているわけでなく、パソコンの前に座ってから「さて、どうしよう…」と思案するのが常である。
今朝も、何を書こうかさんざん考えたが、6時を過ぎても、ちとも浮かんでこない。
夜明けの遅いこの時期とはいえ、6時を過ぎようかという時刻になれば、さすがに東の空が白んでくる。
そうなると焦るし、焦れば焦るほどドツボにハマるというか、ますます思考停止状態になり、頭が真っ白になっていく。
そういう時の神頼みというか、藁をもすがる…の藁の役をしてくれるのが、何冊かの句集で、とにかくぺらぺらと数ページを手繰っていると「ふむ、これ使えるかも…」という句が目に入った。
「…かも」なんて悠長なことを言っている場合ではなく、「ここであったが百年目。こいつで何とかしなければ…」の心境であり、「これにしがみつくしかない」と思い定める。
流れゆく大根の葉の早さかな
ご存じ高浜虚子の句だが、大岡信の解説を添える。
「小川の上にかかった橋からふと見下ろすと、冬の澄んだ水の中を流れ去る大根の葉がある。それが意外な早さであるのに軽い驚きを感じたのである。虚子はその『早さ』の印象だけを句で語った。その結果、単に大根の葉を詠んだだけの句が、生の無常迅速を暗示する句にさえなった。
事例の動きの一瞬をすくいとることによって、かえって長い時間の経過の中にある一様相を鮮明にとらえうることがある。この句が虚子の代表作の一つになったのはそのためである」
今朝はテーマ探しながら、パソコンの脇に置いてある卓上カレンダーを眺めていて、「まだ18日か…」とため息が漏れるのを感じた。
何と時の進み方が遅いことよと思いつつ、1月というのはそういう月だったなと思う一方で、元旦と翌2日の衝撃がもうはるか昔の事のように感じられる時間感覚の不思議さを漠然と思っている時に、この句が目にとまったのだった。
というわけで、ひとまずヤレヤレの気分である。
円覚寺・如意庵の山門越しに見るツバキ