女医さんで主治医の眼科部長はボクが診察室に入るなり「どうですか? 」とニッコリと笑顔を作って聞いてくる。
「不同視ってのに半信半疑でしたが、慣れるととても便利で快適です。何より近眼鏡も老眼鏡も必要ないところが素晴らしい」とボク。
それを聞くと女医さんの表情はみるみる頬が緩み、口元がほころび、目じりが下がっていって声の調子もハイトーンになってゆく。
「あ~、良かった! 〇〇さんの場合には緑内障もあるから、将来手術の必要性も出てくるかもしれないので、再手術になるとなかなか簡単ではないなぁ、と思っていたんですよ。そうですか、良かった良かった! 」とヨカッタに力が入る。
で、ボクもうれしいものだから調子に乗り、「日常生活からメガネが全くいらなくなるわけで、人はどうしてこの方法を選ばないんですかねぇ。第一、そんな手があるなんてお医者さんは一言も説明してくれませんよねぇ。なぜでしょう」と聞くと、「これはいわば裏技なんですよ。やはり個人差があって、慣れて便利がる人と、まったく受け付けない人に分かれます。だから、こればかりは実際にやってみなければわからないし…」と言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、再手術の必要が生じないようにするためには、事前にこう見えるのだというシュミレーションをするのが一番説得力があるのだが、手間と時間がかかって、なかなか難しい、ということのようだ。
しかも、まったく合わず、クラクラしてしまうと言って拒否反応を示す人もいるので、簡単には勧めないらしい。
「〇〇さんのように、片方の目を手術した途端、こんな見え方じゃ困る、とはっきり申し出られると医者としては次善の策を提案するのです」とこれは推奨すべきではなく、不満を漏らした人への次善の策だということのようである。
そうかなぁ~。事前にきちんと説明してくれて、シュミレーションさせてもらえれば納得してむしろこちらを選ぶ人が増えるのではないか。
ボクは実際に、試しにこう見えるというシュミレーションを受けて納得した上でこの不同視を受け入れたのだ。
ただ高齢社会になって増え続ける白内障患者に対応しながら、この手間暇かかるシュミレーションを全員に行うのは現実的ではないかもしれない。
でも、オプションでこういう手がありますよというのは、あってしかるべきだと思うのだが…
「不同視」というのは、左右で見え方の違うレンズを入れることによって、近眼を解消した眼と老眼を克服した眼の2つを同時に持つということを意味する。
そうすると日常生活では、メガネに頼らず全く不自由のない生活が送れるという寸法である。
脳がアバウトに出来ているお陰で左右で違って見えても補正してくれるんだそうな。
人間にはこういう優れた脳ミソが備わっているからこその芸当なのだ。
ボクの場合は脳ミソに加えて人間そのものがアバウトに出来ているから、この左右アンバランスをすんなり受け入れることができたのかもしれない。
ヤナギの枝がどんなに強い風に吹きさらされても折れないように、突っ張り踏ん張るばかりが正しい訳ではないのだ。…ん?
原則は明確に、対応は柔軟に――ってところでしょうナ、お立合い!
我が家のクレマチス「アフロディーテ・エレガフミナ」が季節外れの花を咲かせているのも、塩害のせいで一度葉を落としてしまったからだが
主同様、「原則は明確に、対応は柔軟に」というアバウトさを備えているからでもあるのだろう。きっとそうだ
海に突き出した稲村ケ崎公園の日当たりの良い斜面ではスイセンが真っ盛り
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