円覚寺が季節ごとに年4回発行する「円覚」という小冊子の「春ひがん号」が手元に届き、「編集後記」から読みだしたところ「本派第四区修善院閑栖住職 安藤宗博師は、昨年世寿九十四歳でご遷化されました。この度はまさにこの春の日曜説教会でお話しする予定であった原稿を、ご遺族の希望により掲載させていただきました。内容は途中までで未完成ですが、文章の端々から安藤師の想いが伝わってまいります」と書かれていた。
ビックリして本文を開いてみたところ「六祖慧能禅師に纏わる咄」と題する未完の原稿が掲げられている。
もちろん推敲前の下書きのようなものだから、いくつかのエピソードや伝えたい言葉などが並んでいるだけである。
「去年来たときは桜が四分咲きで陽気も良かったせいかいつもより人出が多かった。其のお客さんが久しぶりに大きな拍手をしてくれた。あれは多分静岡からよく一人で来れましたな、と云う称賛の拍手だったと思います。
外に出て歩いていたら話しかけて来る人も有り、握手を求める人、私の腕を抱えて写真を撮って喜んでいる人も居た。私は何だか有名なタレントにでもなった様な気がした」で始まっている。
とぼけた味のある和尚で、時々肝心の「と」が外れてしまって、単にぼけてるんじゃなかろうかと思わせるようなところもあったが、そこも人気のゆえんかとも思うが、ともかく、そこはかとない魅力がにじみ出てた和尚さんだったんである。
だから案外人気者だったようで、すれ違えば握手を求めたり、一緒に写真を撮るなんてことは自然な出来事なのだろうと思う。
魅力に気づいていた人はボク1人だけじゃなかったのだ。
年が明けて2度目の日曜説教坐禅会で亡くなったことを知り、翌日、丹那トンネルを抜けたところの駅を降りて、暮らした寺がどんなところだったのか尋ねてみたのである。
その時のことは1月24日のブログに書いてあるので触れないが、こじんまりしてはいたが、掃除の行き届いた凛とした、いかにも禅寺らしい佇まいの寺だった。
念のため、本堂脇の寺務所兼住居らしい建物の玄関を開けると、息子のお嫁さんと思しき女性が応対に出てきて、日曜説教会で話す内容の下書きが机の上に残されていましたと言っていた。
どんな内容なのか、できるなら読ませてほしいと思ったのだが、そんなことを口にするわけにもいかず、黙って帰ってきたんである。
それが折も折、お彼岸に現れて、例のとぼけた調子で「ほれ、これだよ」とボクの目の前にポンと投げてよこしてくれたような気分である。
以下はその一節。
「禅宗には『無事是貴人』と云う教えが有る。何が有っても何事も無かったように通れたらそれは貴い人、否 人ではない、仏だと言っていますが、之はなかなか容易ではない。之がよくわかっているはずの私なのに此の歳になっても未だ時々危険水域に落ちそうになり未熟だなと思うことが有ります。
そんな私の『伝家の宝刀とも云う可き一語』は昭和41年ごろの警視総監 秦野章さんの講演の中に在りました。
『人は誰でも一生の間に一つや二つ人に云えないようなことをしているものではないか。私は若いころ横浜の戸部警察署に放り込まれていたことが有ります。それが警視総監ですよ』
みんなドッと笑いました。
私もえーっと思いましたが考えてみると私も人に云えないようなことを幾つかやっている。あれが一つでも明るみに出ていたらこんなところに立つことはできない。それを想うと何を言われようと身を挺して盡した事が仇になって返ってくると云うような理不尽な目に遭おうと文句を言えた義理ではない。
之が私が何が有っても何もなかったように通る最後の砦です。皆さんも之に気付いて欲しいと思います。」
「過去を変えることができる。
まさかと思うが
辛かった過去があったからこそ
今の幸せが有ると気付いたら。」
最後はこの4行で終わっている。
折に触れて味わってみようと思っている。
お彼岸とはいえ、それにしても不思議なことが起こるものである。
わが家で満開の勿忘草(ワスレナグサ)
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