平方録

黄昏ってる

今年は冬の訪れが例年になく速かったが、そういうこと以上に寒さを感じてならない。
さすがにズボン下とかタイツの類は身に着けていないが、外出するときなど長袖の下着に厚手のシャツ、その上から薄手のダウンジャケットを羽織るだけだったのが、今年は薄手のセーター1枚を余計に着込む結果になっている。
これまでだって寒がりの部類に入っていたように思うのだが、体質が変わってしまったのではないかと思えるほどに寒さが身に染みるのである。

この現象が自分一人にとどまっているのなら「あぁそうなんだ」で済むのだろうが、他人が混じるようになると話はややこしくなる。
昨日はわが家の20畳ほどのリビングに大人5人、子ども3人が集まって食事をし、子どもたちは大騒ぎをしていたのだが、8歳の姫は暑い暑いとしまいには下着姿になってしまうほどだったのだ。
暖房は床暖房で床からじわじわと温める方式のものだから、それほど温度が高かったわけでもないと思うのだが、人いきれも加わって暑さを感じたようである。
姫の父親も羽織っていた薄手のフリースを脱ぎ、腕まくりをしている。

それでもこちらはセーターを着込んだまま「え? 暑いの?」と半信半疑である。
結局床暖房も切り、暖房なしで過ごすことになったが、なにか釈然としない気持ちが残ったのである。
体感温度に個人差があることは理解できるが、片やセーター、こなた下着1枚なんて差にまで広がるものなのか…

考えつくことは、ジジイになってしまったということである。
温泉などに行くとたいして寒いとも思えない冬の始まりくらいから厚手のラクダのシャツを着こんだり、股引をはいている爺さんを見かけることがある。
ああいう爺様になってしまったのではなかろうか。だとすると、これをどう受け止めたらいいのだろう。
やっぱり「あぁ、そうなんだ」「そうですか」と受け入れるしかないんだろうか。

しかし、強がろうが弱音を吐こうが、寒いものは寒いんである。
伊達の薄着なんぞはもう過去のものである。風邪でもひいて肺炎にでもなったら一大事で、それこそ家族に迷惑が掛かってしまうだろう。
手の指だって、爪と皮膚の境目が乾燥してだろうと思うのだが、ひび割れてしまって痛くてしょうがないのである。
あんまり痛すぎてキーボードを打つのにも注意を払わなければならない。
10本のうち、無傷のままの指は2、3本に過ぎないのだ。
脂っ気が抜けて、肌がカサカサしてきているのだ。血行が悪いせいでもあるのだろう。

何とも情けない思いで啄木のように、じっと手を見るばかりである。
これではまるで黄昏ではないか。流行語風に言えば、黄昏ってしまっているのだ。
そんな思いで2016年の大晦日を迎えているのである。



わが家の「空蝉」(5月31日)
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