ベッドから抜け出るには決心がいったのだが、いつものように4時に起きて着替えを始めたらここ数日の刺すような寒さは消えている。
ベランダに出て空を見上げると一部で星が光っていたが、足元は濡れている。
そのせいもあるのか、空気に少し生暖かさを感じるほどである。
昨日の円覚寺の日曜坐禅会で坐禅の指導監督をする総取締役の直日(じきじつ)の若い坊さんが終了の挨拶で「今朝起きる時にデジタル温度計を見たら雪の結晶マークが出ていて3度しかありませんでした」といっていた。
フン、わが家は1.7度しかなかったぞ、大したことはないじゃないかと思ったが、坊さんの言っているのは室温のことだなと思い直し、身震いが来たものだ。
1.7度はわざわざ温度計をベランダに出して計ったもので、室温は13度だった。
今冬一番の冷え込みに見舞われた朝だったのだ。
ちなみに今朝も外気温を計ったら13.1度もあった。
こういう穏やかな空気に覆われるのが南関東のいつもの12月なのだ。
この坊さんの直日の役目は坐禅の指導監督だから参加者が坐禅をしている間、警策を持って堂内を巡り、求められるままにビシッ、バシッと肩から背中にかけた部分を打つのだが、参加記念に我も我もと求める人が多く、うるさくてかなわないのだ。
「静かに坐っていただこうと思い、巡りませんでした」と言っていた。
フム、なかなか見どころのある細かな配慮の効く坊さんではないか。
話は遡るのだが、円覚寺では盆と暮れと春秋の彼岸に1枚づつ包装された厚焼きせんべいが参加者に配られる。
今回はせんべいに加えて横田南嶺管長の出来上がったばかりの著作「こころ ころころ」(青幻舎)が配られた。
兼務住職をしている東京・白山の寺の檀信徒に宛てて法話を250字に要約したものをはがきで送り続けているものの内から何篇かを選んでまとめたものだそうである。
250字だから極端な話、一目で読めるのだが、さすがに修業を積んだエライ坊さんの語ることは文章の長短を乗り越えて心に沁みとおっていくものなのだ。
先月も坂村真民詩集百選「はなをさかせよ よいみをむすべ」(到知出版社)という上梓されたばかりの本を頂戴した。
2冊とも禅のこころを伝えるための本であるのだが、難しいことは何も書いていないからありがたい。
著作はたまたま3冊が12月までに集中して出る予定だと言っていた。
とするとあと1冊残っている。さては来年1月14日の初説教の時に配られるのかしらん、などと修行の足らぬ身はさもしい考えを巡らすのである。
厳しい修行はいくらでもできますが、それが良いかというとそうではない。熱い風呂に気張って入るのが江戸っ子の粋でした。確かに厚い風呂に辛抱して入ると「俺は風呂に入ったぞ!」という気になる、しかしかえって湯冷めし、風邪をひいてしまう場合もあります。昔から修行は「ぬるま湯に浸かるようにやれ」と言います。ぬるま湯に長く浸かった方が、体が芯から暖まるのです。時々に適した湯加減を調節し、修行していきたいと思います。
いただいた著作をパラパラとめくっていたら「ぬるま湯の修行」に目が止まった。
熱い風呂に浸かり続けた現役生活だったような気がするが、ボクも遅ればせながらぬるま湯にしようと思う。
もう一つ。生の説教では「欠点ばかりに目を向けるのではなく、慈愛に満ちた温かな目で見ることに徹しようと思うようになってきた。皆さんもどうですか」と言っていた。
これも来し方を振り返ると胸に響く。
出来るかどうかわからないが、呼びかけに応じてみたいと思う。
円覚寺の仏殿の裏でスイセンがもう咲きそろい、甘い香りをほのかに漂わせている
境内では名残の紅葉が吹き始めたやや強めの風に舞っていた
北鎌倉の住宅地を抜けて家に帰る途中の公園でたわわに実をつけたヒヨドリショウマが色づいているのを見かけた
曲がりくねった長い急坂を上り、住宅地に差し掛かる辺りの陽だまりでもスイセンの群落が花盛りで、むせ返るような香りが漂っている
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