午後になって、自転車でパトロールにでも出かけようと思いかけたのだが、空模様がどうも気に食わない。
晴れてはいるのだが、ごく薄い雲が広がっていて、地上に届く日の光りは何とも煮え切らない中途半端なものだった。
そもそも秋の日は真夏の烈日と違って和らなかのが特徴なのだが、それにしたってはかなすぎる。弱弱しすぎるのだ。
こういう時はちょっと気が乗らない。
前日に久しぶりに50キロ超を漕いだこともあって、今日は軽めにしておこうとは思っていたのだが、そんな弱弱しい煮え切らない日の差し方を見て漕ぐのをやめた。
その代わり、久しぶりに自転車の掃除をすることにした。
5月にパンク修理を頼んだついでに、擦り減ったタイヤ交換を頼んだらきれいに掃除してくれて得をした気分を味わって以来のことになる。
考えてみれば、自分の手で愛車を磨いたのはいつだったのかにわかに思い出せないくらいの無精者である。
いつも湘南海岸の海砂交じりの道を走っていて、時には道路一面に溜まった砂の中に強引に突っ込んで走り抜けたりしているので、砂まみれ、ホコリまみれでわが愛車は汚れきっていた。
無精者ではあるがきれい好きで、いつも気にはなっていたのだ。
明日やろう…今度やろ…
汚れは思ったより簡単に取れた。
そもそも乾いた砂やホコリがまとわりついていただけなので、布切れで拭きさえすれば簡単に落ちるのだ。
タイヤのスポークの1本1本にもぼろきれを当ててこすったのだが、労せずしてツルツルになり、以前のような鈍い光を取り戻した。
必要なところには油も注した。
変速装置にも砂粒がこびりついているところがあり、気にはなったのだが、これを奇麗にするにはバラバラに分解しなければならないので目をつぶったが、まぁ見た目は相当リフレッシュしたので良しとした。
しかし何ですな、掃除をするってことは心を磨くってことだというのを時々耳にするけれど、そんな大げさなものでなくても、大事に使っているものの日ごろの汚れがきれいに落ちてピカピカになると、これは心が浮き立つような気分になり、やっぱりうれしい。
禅寺に行くとしょっちゅう掃除ばかりしているけど、意味のある事なんでしょうな。
なんだって放りっぱなしにしていると錆びちゃうし、表面が汚れて曇っちゃう。
何事も磨かざれば光なし…って。
今朝はチョッピリ殊勝。
ほろほろと 秋のひかり 手にうけて
もったいなくて もったいなくて
穂すすきも 桔梗も かるかやも
みんな風に動いている
三島にある臨済宗龍沢寺の中川宗淵老師という人が詠んだものだという。
磨いてピカピカになった自転車を眺めていたら、ふと頭に浮かんだのだ。
磨かざれば光なし