東北各地を旅して歩いた松尾芭蕉の「奥の細道」はこの書き出しで始まる。
そして
やや年も暮れ 春立る霞の空に白河の関こえんと そぞろ神の物につきて心をくるはせ 道祖神のまねきにあいて 取もの手につかず
と、「しだいに年も暮れて、春になり、霞がかかる空をながめながら、ふと白河の関を越えてみようかなどと思うと、さっそく『そぞろ神』がのりうつって心を乱し、おまけに道祖神の手招きにあっては、取るものも手につかない有様である」と尻がムズムズして旅に出たい気持ちを抑えられなくなる様子を記している。
かくして旅好きの人間には常に「そぞろ神」と道祖神が付きまとい、あるいは寄り添って「そろそろどう? 旅に出ようよ! 」とささやくのである。
今年は夏が終わってしまった途端に、この「そぞろ神」と道祖神がボクのところにも連れだってやって来て、件のセリフを投げかけたのだった。「そろそろ どぉ? 」と。
ならばと、たまたま発売と同時に購入しておいた鈍行列車しか乗れない「青春18きっぷ」を使って9月の初めに琵琶湖東岸の美術館まで「田中一村展」を見がてら琵琶湖を一周し、10月にはかつての同業者仲間との年に1度の集まりで盛岡に集まって旧交を温め、その足で青森の八戸から宮城の松島まで三陸海岸沿いを南下して震災のその後を見て回った。
そして日帰りだったが山梨の身延近くの名も知らなかった小さな町まで出かけて行って木喰が彫った仏像を展示した「木喰展」も見てきた。
まぁそれで打ち止めの予定だったのだが、ツレアイが妹と連れ立って今年1月に亡くなったばかりの母親の父親、つまり姉妹にとっては祖父の生誕の地である山口県の青海島への旅行を企て、島に立ち寄るツアーに申し込んでいたところに同行することになってしまったのである。
「…しまった」と表現しているように、積極的な意思はなかったのだが、世の中には自分の意思が強く働かなくても行動をする場合というものがあるものなのだ。
という訳で、修学旅行以外では初めて旅行会社が募集する「ツアー」というものに生まれて初めて参加したのが今回の津和野~萩~青海島~角島大橋を巡る2泊3日の旅という訳である。
確かにツアーは楽チンである。足の心配も食事の心配も、寝るところの心配も全くない。
着いたところでガイドさんに付き従って歩けば、それなりの見どころというものに案内してくれる。宿に着けばそこそこの料理が運ばれてくる。もちろん自分の意思は一切不要。すべて自動なのだ。完全自動! もう少し前の言葉を使うと完全オートメーション!ってやつである。
ゲーテは「人が旅するのは到着するためではなく、旅をするためである」という言葉を残している。
「目的地に着くことではなく、旅をするため」——ここに含まれる含意にこそ旅の真髄というものが隠れている
ツアーは天候にも恵まれたし、トラブルもなく快適の部類に入るのだろう。ゆえに特段文句があるわけでもない。
でも、次以降は芭蕉やゲーテの言う「旅」に戻りたい。いや、戻る!
今回の旅の印象は? と問われれば「津和野の路地」と
萩の宿の夕食に頼んだフグの「ヒレ酒」 と答えたい
コメント一覧
heihoroku
heihoroku
heihoroku
ひろ
MOMO
最新の画像もっと見る
最近の「随筆」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事