と言っても、50着も100着も持っているわけではなく、たかだか夏物冬物合わせても20着に満たないから、俗に言う衣装持ちではない。
吊るしばかりで特別値が張るブランド物の背広が並んでいるわけでもない。
そもそも上下揃いのスーツなんぞ出来れば身につけたくないと思っていて、若い頃はほとんどジャケットで過ごし、しかもラフなものばかり選んでいた。
ネクタイというものも嫌いで、しょうがなくてぶら下げていたが、ニットが好きでいつもだらしなく緩めていた。
まぁ、正直言えば、その方が職業柄からも格好が良いのだとも思っていたんである。
だから、ジャケットの柄とか素材とか、もちろんデザインも含めて何でもいいというわけではなく、かといってセンスに自信があるわけでもなく、妻のアドバイスを得て身につけてきのである。
そのままを通したかったのだが、労働市場から撤退するまでの直近の10数年は「立場をわきまえろ」などという、先輩の“ありがたい忠告”なんぞを受けるに及んで、長いものには巻かれるしかないか、と諦めていたんである。
仕事柄、もう少し自由でありたいとも思っていたが、世間というものは画一とか没個性を求めるから窮屈ではあったが、ことさら波風を立てるほどのこともあるまい、でも精神だけは…と面従腹背でいたんである。
だからクローゼットの場所取りを続けているのは、面従腹背の名残、残滓なのである。
しかるに卒業以来の1年半でスーツに袖を通したのは、冠婚葬祭の礼服を除き、記憶に残る限り去年4月の孫娘の入学式と6月の株主総会のたった2回である。
さて、どうしたものか…。
世間のクビキを離れた今、自由を楽しんでいる身としてはおしゃれにも関心があるのだが、毎日あれこれ考えて変化を持たせるなんぞという芸当は出来っこないし、するつもりもない。
畢竟、気に入った格好ばかりのワンパターン化するのである。だから、おしゃれとは呼ばないのかも知れない。
今冬もほぼワンパターンである。
前から欲しかったスコットランド製のインバーアランの紺色のカーデガンを手に入れ、家にいる時も外出もこればかりである。
このずしりと重いカーデガンは職人が90時間をかけて手で編み上げたシロモノで、元はと言えば北の海で働く漁師たちの身を守ってきた筋金入り。そもそもウールなので暖かく、しかもきつく編み上げてあるので風を通さないから、外出時のアウターとしても耐えうるのである。
このカーデガンの下に、紺色に合う少し厚手の柄物のシャツを着て、長そでの下着を着ていれば南関東の冬はOKである。
マフラーがあれば万全で、ズボンはと言えば年甲斐もなく? 細身のGパンで、裏地のついた暖かいものをはきつづけている。
去年まで愛用し続けてきたダウンジャケットや暖パンなどは、まだ一度も袖も足も通していない。
かくして、気に入るとそればかり身につけて悦にいるようになり、フト我に返るとその入れ込みぶりに、人間としての幅が狭いなあぁ、とつくづく反省するのだが、気に入っているのだし、快適だし、反省はうわべだけで過ぎていくのである。
近所の池の奥に広がるアシの群落では穂綿が冬の陽に光っている
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