例えば俳句。50歳になるかならない頃から異業種の仲間を誘って始めたのが今に続いているのだが、なぜ短歌ではなくて俳句だったのかと振り返ってみるに、歳をとっても10年一日のごとく、あるいはナントカの一つ覚えのように、ただ集まってワイワイ言いながら飲むだけではあまりに能がないだろう。せめて知性のひとかけらもにじみ出るような小道具があればそれに越したことはない。それには俳句辺りが手ごろだろう――とまぁ、そんなぼやけた理由をこじつけていたのだ。
宴席の割りばしの袋を破り、その裏面に金釘流で文字を刻むには31文字より17文字の方が簡便である、というのも立派な理屈として成り立つが、やはり底流にはなにがしかの17文字に対する強い印象というものが存在していて、いつかあれを自分のものにしてみたいという意識的な欲望・動機が隠れていたことはまだ誰にも言ったことはないが、間違いないところなのだ。
その一つの確実な動機づけになったと言えるのが高校時代の国語の教科書に掲載されていた幾つかの俳句の内の村上鬼城の句だった。
冬蜂の死にどころなく歩きけり
この痛切きわまりない句を目にした途端、何か強烈な衝撃が体を貫き、半ば呆然とさせられ、多分傍から見ればしばらくのあいだボクはボォ~ッと呆けていたと思うのだ。
ボクの高校生活はサッカーボールを追う日々だったが、スポーツマンらしい明るさや積極性なんてものとは無縁で、暗くて厚い灰色の雲に覆われっぱなしだった、楽しいことなんて一つもなかったのだ。
そういう鬱屈したような心根に、この句はジワァ~ッとしみ込んできて、瞬く間に体中に充満していったのである。
俳句というものの計り知れないような力を認識させられた瞬間だったのだ。
中学・高校の友人と飲んでいる時に、この「冬蜂」の句の話をしたところ、その友人は「俺にもある」といって飯田蛇笏の「芋の露連山影を正しゅうす」を挙げ、実際に大学生になって甲府盆地まででかけ、サトイモの葉の上の露の玉に周囲の山々が映るところを見に行ったのだと明かした。
こいつはラグビー部にいたのだが、心根の優しい奴で、自我を極端に殺してかかるからだれの言うことにも面と向かっては逆らわず、むしろ進んで相手に合わせるような奴だった。
それ故随分と漂流したに違いないのだが、それを苦にする風でもなく、愚痴ることも決してなく、淡々と受け止めて暮らしていけるという男なのだ。
蛇笏の代表作の一つであるこの句が彼の心に住みついているというのが、何か「あぁ、そういうことか」と妙に納得させられた覚えがある。
俳句の話なのか古い友人の話なのか、何が言いたいのか分からなくなってしまったが、忘年句会も近づき、そのことを思っていたら急に〝芋の露の君〟のことが脈絡とは無縁に浮かんできたという訳なのだ。
こういうこともあるのさ。
冬の相模湾と富士山
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