板という素材は場合によっては痛ささえ感じるほどに冷え切っているもので、太陽が辺りを隅々まで照らすようになるまでその状態は続く。
師走に入ったとはいえ、まだそういう寒さはやって来ていないが、戸を開け放した大方丈に1時間超坐っていると、昨日あたりの朝の気温は4、5度程度だったようだが、それでも背中の辺りがぞくぞくしてくる。
もう少し若ければやせ我慢をするところなのだが、まぁ抗いようのないジジイになってしまったので、恥ずかしながら下腹と腰に使い捨てカイロを貼って出かけているのだ。
修行という観点からすればとんでもなく堕落した行為だが、ジジイという生き物は寒さにさらされるとトイレが近くなってしまうので、これは止むにやまれぬ側面もあるのだと自らを納得させてもいるんである。
いつもはこの坐禅を組んでいる最中、横田南嶺老師が講じる古の高僧が残した語録の提唱を聞くのだが、円覚寺は一年で一番厳しいとされる修業期間に入っていて、横田管長は雲水たちの指導にかかりっきりになるため、われら在家の軟弱者たちの前には姿を見せない。
そういう訳だから、われらの背筋をピンと伸ばさせる役割を担うのは厳しい寒さと言うことになるのだ。そういう意味ではまずまずの指導ぶりだったと言ってよい。
しかし、先月訪れた栃木県大田原市の山中にある雲巌寺の寒さはいかばかりかなぁと想像し、いやいや雪に閉ざされ日本海から吹き付ける季節風にさらされる福井の曹洞宗大本山・永平寺の雲水たちは真冬の修行をどのようにして乗り切っているんだろうかと、他人事ながら心配になってくる。
三方を山に囲まれ、日の出の時間が他より幾分遅れるとはいえ、南関東の海辺の町の寒さなどたかが知れたものである。
坐禅をしていると次から次へと、実に様々な事柄が頭に浮かんできては消えていき、とても没我の境地からほど遠いのだが、何か一つに拘泥するわけではないから、すべては一過性で、そのうちエアポケットのように没我の境地も訪れてくるのだろうと坐り続けているのだ。
昨日も次から次に頭に浮かんでは消え、消えては浮かぶ脈絡の全くない事柄の中に、ふっと書き終えたばかりのブログの文章の引っ掛かりが浮かんだのだ。
飯田蛇笏の「芋の露連山影を正しゅうす」の句を引用したのだが、イモのツユをイモのツル—―「蔓」と書いてしまったことに気づいたんである。
ツユと打ち込むべきところをツルと打ち間違えて、それをそのままツユと打ち込んだものとばかり思い込んでいたものが、その時に気づかず、2時間近く経って坐禅をしている間に突如浮かんで来るという現象はいったい何なんだろうと思う。
おそらく目の網膜に焼き付けられた漢字の「蔓」という文字に対する違和感というものが無意識のうちに浮かび上がってきたんだろうと思うのだが、それにしても気付くのが遅すぎる。
でも、遅いけれども気付くことは気づいたのは事実である。
坐禅終了後にスマホからブログにアクセスして訂正しておいたが、では、坐禅をしていなかったら思い浮かぶこともなかったんだろうか。
意識の底に沈んでしまったとしても、その沈んだ違和感というものは時間が経てばやがて手段や方法を変えて浮かび上がってくるものではないのか。
その時に浮かんできたかすかな影を確実に掬い取れるような態勢が取れているか否かによって結果は変わってくるのだ。今回のケースでは静かに坐禅している間にそれが都合よく浮かんできたと言うことではないか。だから掬い取る余裕も生じたと言うことだろう。
人の記憶というものは違和感を違和感としてきちんと刻むものであるらしい。そのことに気づかされる出来事だった。
人間の持つ潜在能力の不思議さと言うべきか。
スイセンで名高い瑞泉寺の隣の谷戸の「獅子舞の谷」の紅葉。例年は12月初旬が紅葉の見ごろなのだが、今年は1週間から10日早く、イチョウはとっくに散ってしまっていて、モミジの紅葉もピークは過ぎているようだった。いずれにしてもイチョウとモミジは同時進行のはずだったのだが、ズレてしまっては魅力も半減以下に落ち込んでしまう
それでもピークと信じて訪れる人は引きも切らず、狭い谷戸はにぎわっていた。ここは西向きの谷戸なので午前の太陽より午後の太陽に透かして眺める方がきれいである
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