まずはいくつかを掲げてみる。
梅からも縄引張て掛菜かな
酒という延齢丹(えんれいたん)や冬籠(ふゆごもり)
有りし世の憂さをも語れ鉢叩き
玉苗や乙女が脛(はぎ)の美しき
よき水に豆腐切り込む暑さかな
塗り下駄に妹(いも)が素足や今朝の秋
冬の蠅牛に取りつく意地もなし
雨止めば冴え持つ空や梨の花
花に客しらで碁を打つ一間かな
朝皃(あさがほ)の命は其日其日かな
子供等が寒うして行く火燵かな
芭蕉も蕪村も思わず立ち止まる作品ばかりなのだ。セイゲツ フー?
文政5年(1822年)の生まれで1887年の明治20年まで、江戸時代末から明治までの激動期を生きた人で、越後の長岡藩士の出らしいとしか分かっていない。
幕末から明治にかけて各地を放浪した挙句、信州の伊那に落ち着き、といっても家もなく、妻子も無い一人ぽっちで土地の人の恵みによって乞食俳人として生き、ついには病に倒れて壮絶な野垂れ死にを遂げた人であるという。
芭蕉を敬慕し、漂白に生きた天性の詩人で署を能くし、句は飢えの作品を見ても分かるように清々しく、真摯な姿勢に貫かれていて魅力的だと思う。
子供のころ、この乞食のような井月と身近に接し、背中めがけて後ろから石を投げたりしていた人物が長じて、伊那の各地に残されていた作品の数々を収集して1冊にまとめ、世の中に紹介するに及んで知られるようになった俳人である。
岩波文庫にも「井上井月句集」として収録されていて、文庫の表紙には「所謂『月並俳句』の時代とされる俳諧の沈滞期にあって、ひとり芭蕉の道を歩いた越格(おっかく)孤高の俳人である」と紹介されている。
山頭火や放哉に先駆けた存在だったとも言えるのだ。
文庫には井月が書き残した俳論「俳諧風雅伝」なども掲載されていて、これがまた俳句の入門書というのか、奥義を伝えていてボクなど目からウロコが落ちる思いで噛みしめている一文なのである。
ここにそのほんの一部を書き止めることで、ボクの胸にも刻み込んでおこうと思う。
前略
「俳諧の詞は俗語を用ゆると雖も心は詩歌にも劣るまじと常に風雅に心懸く可し。句の姿は水の流るるが如くすらすらと安らかにあるべし。木をねじ曲げたるようこつこつ作るべからず。良き句をせんと思ふべからず。只易す易すと作るべし。何程骨折りけりとも骨折の表へ見えざるように、只有の儘に聴ゆるが上手のわざなりと心得べし。俗なる題には風雅に作り風雅なる題には俗意を添え、をかしく作るは一つの工風なり。されど定まりたる格にはあらず。俳諧は夏炉冬扇なりと古人の語を考ふべし。言の葉の道なれば言の葉をよく考え糺し、前後の運びつづけさま深切にあるべし。てにをは仮名遣ひよく吟味すべし。句はありげなる所を考ふべし。極めて有る処を考えれば理屈になるなり。」
以下略
とまぁこんな調子なのだ。実に分かりやすいというか、明快である。
そもそもこの「俳諧風雅伝」そのものが割と、短いもので、それだけ余計なことを書かず、核心をついたことだけを述べていることにも好感できるのだ。
ボクなんか、ややもすれば、ねじ曲げた木をさらにひん曲げて引張りまわすようなことをしているのだから、これを読んで大いに反省している所でもある。
「水の流るるが如くすらすらと安らか」な作句を心がけようと思うのだ。
今日はこれから2時間半電車に揺られてくる。
グリーン車で行くつもりだからアルコールなど買いこんで、酔いどれ井月を偲びつつ、いくつかひねってみたい。おっと〝ひねる〟というのもねじ曲げないように、ひん曲げないように気を付けなければ…
明日2月16日が命日なのだ。
何処やらに鶴(たづ)の声聞く霞かな
この句が辞世の句とされている。もちろん旧暦の2月16日ですね。
崖下の紅梅=円覚寺龍隠庵
フクジュソウがこんなに咲いた=円覚寺居士林
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