行先は東京湾に面した横須賀の馬堀海岸。
つい最近まで認識していなかったのだが、横浜横須賀道路がまさにこの馬堀海岸まで伸びているんである。
目的はここに出来た温泉施設。
インターチェンジを出てすぐ右側にあるので、迷うこともなく、わが家から45分で着く。
2階の露天風呂に入っていると、横浜港や東京港に出入りする大小の船舶が浦賀水道の狭隘な航路を出入りする姿が目と鼻の先に展開するのである。
コンテナ満載の巨大なコンテナ船、巨大な箱を浮かべたような自動車運搬船、ラクダのコブのような丸いタンクをいくつも備えた液化天然ガスの運搬船、喫水線ぎりぎりまで沈んだ巨大な原油タンカー、原油タンカーに似た平べったい甲板の鉱石運搬船、5、6本の太いクレーンを目立たせる船は重量物運搬船だろう。
こういう特徴的な外観の船に加えて沿海、近海航路の中小型船舶が目の前をすれ違って行く。
世界有数の通行量を誇る浦賀水道航路が込み合うのは朝と夕方であり、陸地の交通ラッシュと同じである。
東京湾海上交通センターによれば1日の通過船舶は平均600~800隻もあるそうだ。
船の活発な行き来は貿易立国の象徴、血管を通過する血流そのもの、生命の源である。
この浦賀水道航路が有名なのは船舶が込み合うからだけではない。
明治政府が東京湾防備のために観音崎と千葉県富津岬を結んだ線上に3つの砲台を構築したのである。
船をやすやすと東京湾に入れないための備えなのだから、厄介である。
観音崎と富津岬の間は地図を見れば一目瞭然だが、巾着の紐を閉じる部分に相当する場所なのである。
したがってそもそも狭いところに障害物が3つも並んでいるから、船は第2海堡と第3海堡の間をすり抜けるようにして通り抜けなければならない。
この航路とその近くで発生した2つの大事故を記憶している。
一つは1974年11月の「第10雄洋丸事故」。
中東からナフサを積んだ4万トン超のタンカーと外国船籍の1万トン超の貨物船がほぼ直角に衝突。衝撃でナフサに引火、両船が食い込んだまま火に包まれたため、貨物船の乗組員が逃げ遅れ、28人が死亡する大事故となった。
事故はそれで終わらなかった。東京湾の真ん中で燃え尽きるのを待つわけにもいかず、太平洋に曳航して自衛隊が撃沈させるというおまけまでついた。
護衛艦4隻、潜水艦2隻、対潜哨戒機数機がそれぞれ艦砲射撃、魚雷発射、上空からのロケット弾発射などを繰り返し撃沈させるのである。
自衛隊には格好の実弾演習になったのではないか。
犬吠埼沖150キロの洋上で、その一部始終を海上保安庁の巡視船から見ていて、そう思ったものだ。
もう一つは1988年7月の海上自衛隊潜水艦「なだしお」と遊漁船の衝突事故。沈没した遊漁船の客30人が死亡している。
過失は両船にあったのだが、真昼間の出来事なのにこれだけ多くの犠牲者が出たのは、もう一方の当事者である潜水艦がただ手をこまぬくばかりで、海上保安庁にも連絡せず、現場での救助活動もしないで、ただ現場にとどまっていただけだったからだ、と世間から指弾を受けた。
確かに事故からしばらく経っているはずなのに、潜水艦の甲板に出ている水兵や士官は何もせずに、ロープの一本も下ろさず、ただ眺めているだけのように見える映像がテレビで流され続けた。
動かぬ証拠とはまさにこのことで、防衛庁長官の首まで飛んだのである。
思えばひどい「事件」であった。
露天風呂からは米海軍横須賀基地の高層住宅群が見え、さらに横浜のランドマークタワー、ベイブリッジ、はるか彼方にスカイツリー、対岸に君津の工場群と、東京湾が一望出来る。
実は10日くらい前に初めて出かけて気に入り、2度目なのである。
山奥の秘湯も良いが、船好き、海好きには絶好のロケーションなのである。
温泉施設1階から見る東京湾。
米第7艦隊の事実上の母港、横須賀基地の高層住宅群とその右は猿島。米艦船の停泊する桟橋は住宅の向こう側で見えない。
東京湾に入ってきた大型コンテナ船。
横浜のランドマークタワー。
君津の工場群。
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