建保7年、すなわち西暦1219年のこの日、右大臣拝賀の儀式に赴いた鶴岡八幡宮社頭に於いて甥である第二代将軍頼家の子・公暁に襲われ命を落としたのだった。
それから数えて今年はちょうど800年、今年はまさに実朝没後800年という節目だそうだ。
といっても特段の行事があるわけでもなく、鎌倉の街がそれで盛り上がっているかというと、それをうかがわせるものは何もない。
冷たいと言ってもいいくらいに…
かくいうボクも没後800年だと知ったのは、先週の日曜日に出かけた円覚寺での坐禅の帰り道に八幡宮に寄り道し、鎌倉国宝館の前を通ったら「実朝とその時代」という特別展をやっているのを見て初めて知ったのだ。
実朝が征夷大将軍に任じられたのは兄の第二代将軍頼家が比企の乱で失脚して伊豆の修善寺に追放された後、わずか12歳の時だった。
言わずもがなのことだが、この将軍は和歌に長じ、なかなか感性豊かな歌を詠んでいて実朝自身の編による「金槐和歌集」は22歳の時に出来上がっている。
東国の荒々しい武家集団の総大将としては珍しい心得の持ち主でもあり、それだけでもボクには魅力的な人物に映る。
印象的なのは公暁に暗殺される日の朝、御所を出発する前に詠んだ自らの死を予期したかのような歌に、この若き将軍が置かれていた境涯というものが色濃く浮かび上がっているようで、悲痛でさえある。
出(いで)て去(い)なば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
身近なところでは、由比ガ浜の西のはずれ、坂ノ下の浜と国道134号に挟まれた小さな公園に置かれている歌碑に刻まれた歌も何か実朝の心の底の物悲しさや不安を写したような複雑な歌である。
世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ 海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも
小倉百人一首の93番に鎌倉右大臣の作として選ばれているこの歌をネットで引くと「世の中の様子が、こんな風にいつまでも変らずにあってほしいものだ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が舳先にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい」という言現代語に訳されている。
市井の小市民が仮にこうした光景を愛おしんで詠んだとしても、日本で初めての武家政権の棟梁が詠んだのとでは、当然ながら身に背負っているものが違うのだから、内容の複雑さは比べるべくもない。
何か物悲しい雰囲気が付きまとう実朝らしい歌だなぁ…としみじみ思うのである。
そして特別展を見て初めて知ったのだが、実朝はこのころ鎌倉に下向していた栄西を導師として「大慈寺」という寺を建立したのだそうだ。
ボクは鎌倉に住んで40年になるが大慈寺という名前は初耳である。将軍勅願の寺が建立されたということすら知らなかった。
「吾妻鑑」によれば「大倉郷」というところに建立されたとあるらしいから、今の二階堂、浄明寺、十二所辺りだが、その場所の特定には至っていないという。
推測では十二所の五大堂明王院の東側だろうとされているが、もちろん古い地図にも観光案内版にも大慈寺の3文字は見当たらない幻の寺なのである。
歴史から消えかかった寺なのだ。
ボクはこの有能な歌人にして征夷大将軍として28歳で逝った実朝という人物が何となく好きで、その存在には魅かれているのだが…
源実朝坐像 甲府市・善光寺蔵(特別展図録から)
坐像のアップ
大慈寺跡出土瓦 鎌倉国宝館蔵 (特別展図録から)
階段を上がってきた実朝に切りかかった公暁が隠れていた大イチョウは2010年3月10日未明の強風によって倒壊してしまい、
残った根から伸びたひこばえのうちの1本がすくすくと育っている
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