平方録

水仙とコハクドウセイガンとお紺と

地元の出版社が発行している小さな雑誌に「立原正秋と水仙」と題する短いエッセイが載っていた。

「晩年、梶原の住宅地に家を構えた立原は、長女が買い込んできた一抱えもある水仙の花を、花瓶を選び、場所を選んで家のあちらこちらに飾り付けたという。少年の頃、韓国から母の暮らす横須賀に移ってきた立原には半島の水仙はなじみ深いものであった。」

厳冬の季節に寒風などものともせずに凛として咲くスイセンの花を立原が好んだであろうことは、一連の著作やエッセイなどから垣間見ることができる。
この作家に魅かれたのは20代の終わりの頃からだった。
仕事の持ち場が変り、若干自由な時間が得られるようになった頃、ふとした弾みにカーラジオから流れて来る朗読を耳にし、それが代表作のひとつの「冬のかたみに」だと知ったのが始まりである。
主人公の少年が厳しい冬の臨済宗の寺で修行を重ねる場面の描写で、アナウンサーが読み上げる「コハクドウセイガン」という指導僧の名前の響きが耳から離れなくなってしまったのだ。

数日たったある日、気になって朗読の時間にラジオをつけると、まだ話は続いていて、やはり「コハクドウセイガン」という何か知らないけれど心地よく聞こえる響きが伝わってきて、この本を手に取って読んでみる気になったのだ。
書棚を探したのだが見つからないのでうろ覚えだが「虚白堂青眼」と書くのではなかったかなと思う。
それはともかく、この自伝的小説に魅かれたのは、それまで読んだ日本の作家には見られない精神の凛とした強さが、まだ若かったボクの心にズドンッと響いたからである。
外連味のない筆致は時に激しく、若者の文学だなと思ったのである。
それからは寝る間も惜しむように一連の著作を読み漁った。

傍らに著作の山が出来ていく日々を過ごしていたある日、新聞に食道がんで逝ったことが報じられるのである。54歳という若さだった。
その少し前にやはり同じ年齢の母を亡くしていたので、余計に記憶に残ったのかもしれないが、あぁ、これでもう新作は読めなくなってしまったな、と妙に冷めた感想を抱いたこともまた事実である。
それからまたしばらく経った頃、エッセイに登場する行きつけの店を探しに出かけた。
そこは駅前の、戦後まもなく闇市が立っていた後に出来た飲み屋街をつぶして建てたビルの地下だろうと見当をつけたのである。

店の名前が書かれていたわけでもなかったが、行けば分かるだろうと思ったのだ。
のれんのぶら下がった間口も奥行きもしれた狭い店が数件並ぶうちから見定めた戸口の前に立って「あぁ、ここだナ。間違いないナ」と思ったものだ。
がらりとガラス戸をひいて中に入ると随分と年を重ねた女将が1人で仕込みをしていた。
開店直後だったためかカウンターだけの店には客はおらず、一番端の一つ手前の席に黙って座った。
すると顔を挙げた女将が、いきなり「あんたシコは食べられるの? 」と聞いてきたのだ。

面食らったが「食べられます。大好物です」と答え、出された手開きのシコイワシの刺身を肴に燗酒を飲みつつ、そろそろ神輿を挙げようかなと思い始めたころに聞いてみた。
「立原さんがよく通われてきていたようですね」と。
すると「そうよ、あんたが一つ空けた端の席に座ったのよ」。
女将が意図を酌んでくれたことが、若かったボクにはとてもうれしかった。

チャキチャキの江戸っ子で「お紺さん」といった。
店の名前の「お紺」はそこからとったものだった。
それから職場の配属先が変り、再び昼も夜も無いような生活に引き戻されるまでの2、3年はちょくちょく通ったものである。


脈絡のない昔話になってしまったが、これからは由なし事のあれこれも書いていきたいと思っているのだ。



11日のブログにも掲載したスイセンの写真は立原正秋の自宅のすぐ近くでまとまって咲いているところを写した


今年はイチョウの黄葉が今一つだった。長谷の権五郎神社の大イチョウは見る影もなく、これは去年12月1日に撮影したもの


円覚寺のイチョウもまた然り。こちらは去年12月4日撮影
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