ある時期には300枚も400枚も出していた年賀状。
暮れも押し詰まった30日あたりにようやく時間が取れ、時間がないというのにそれでも急いで版木を買ってきて版画を彫り、1枚1枚バレンを使って丁寧に摺り、それにまた一筆を添える作業をしていたら除夜の鐘まで鳴り始めるというような年の瀬を何度繰り返してきたことか。
ああいう狂気を帯びたようなパワーや振舞というものは今となってはただただ懐かしいだけだが、今はそんなバカげたことはまっぴらで、ここ十年余りはあわよくば止めちまいたいとばかり思ってきても、世間のしがらみにがんじがらめにされている身であってみればそうもいかず…
とは言ってみても、仕方なく作って出すような年賀状を誰がありがたがるかと言えば、チラッと一瞥が加えられるだけでゴミになるのが関の山である。
年賀状を出そうというエネルギー、年賀はがきを買うための出費、これを集め、配達しやすいようにえり分けする手間、実際に元旦も返上して配る労力…といったものを勘案すると、この年賀状を出して届けるという一連の行為にかかる経済的経費はいかばかりなのか。
これに各々の時間、精神的負担など諸々の要素も金銭的負担に置き換えられるとして計算したならば、相当な額になるに違いない。
鎌倉時代、川に落とした小銭を探すために落とした金額の倍以上のお金をかけて暗がりを明るく照らすためのたいまつを買い、従者に銭を探させた侍がいたんだそうな。それを見た人が「何というバカな侍だ。そんな簡単な計算も出来ないのか」と笑ったところ、「たいまつを買えばたいまつの材料を集めた人にお金が入る。材料を買ってたいまつを作って売った人にもお金が入る。落としたお金が戻ってくれば国家が作った銭が川底で朽ち果てて価値が失われずに済むではないか」と嘲笑を一笑に付したそうだ。
青砥藤綱という侍の話で、鎌倉の滑川にかかる青砥橋のたもとにその碑が建っている。
そのデンでいけば確かにミクロの視点で経済は回るのかもしれないが、世の中にはそれでも浪費とまでは言えなくても首をかしげたくなる行為というものも存在するのだ。
年賀状というものも、価値を見出している人には効率は悪くないように見えるかもしれないが、価値を見出しづらくなってきた場合にはもう時間も経済的負担もうっとしいだけのものに堕していくのである。
今まで曲がりなりにもお世話になって来てなんだが、君子は豹変するんである。
ボクもクンシでありたいのだ。
…と言いつつ、もう時間がないぞ、神輿を上げなばと慌てているのだが、これもあと3、4日もすれば賀状自体は出来上がることになるのだろう。
そして、今年こそ「もうやめたい」という一筆を添えるかどうかの判断をしようと思っているのだ。
何せ来年は夫婦そろって古希を迎えるのだ。言い訳にはいいタイミングなのでありまする。
顔も忘れてしまったような方のところに出し続けるのは、相手だって迷惑しているに違いないだろうから。
世の中って、何か終わりにさせるのに案外エネルギーを必要とするんだよナ、これが。
以下は 今年のわが家のバラ庭・初夏その1
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