昨日は日曜坐禅会を休んだ。
先週は円覚寺側の都合で珍しく坐禅会そのものが開かれなかったが、今回は自らの意思で休んだので2週連続になってしまった。
物理的な差し障りがないにもかかわらず休んだのは初めてで、左の膝にしばらく前から違和感を感じていて、それが気になって無理するのは止めておいたのだ。
もう一つは毎月第4日曜日は横田南嶺管長ではなく、他の和尚が担当するため、話の中身の迫力不足は否めず、うんちくも感じられない。
もちろん中には函南の修善院の安藤和尚のように何とも言えないとぼけた味の、かと言ってよっぽど集中して聞いていないと何が言いたいのか分からないような話をする和尚がいて、それはそれで十分楽しみだったのだが、先年亡くなってしまった。
そんなわけで休んだのだが、同じ時刻に家で小1時間ほど坐禅を組んでみた。
基本的に坐禅は気持ちを集中させればいいだけで、どこでだってできるはずなのだ。
警策を持った直日がいなくては…とか、禅寺らしいそれなりの環境・雰囲気が整っていなくては…などと御託を並べて難色を示していたのでは、それこそ修行が足らん! と言うことになってしまう。
で実際どうだったのか。
2階の東南角の明るい部屋で坐ってみたのだ。
静けさはとても良かった。階下のテレビの音も聞こえてこないし、たまたまだろうが、日曜日の朝の住宅地はとても静かで、特段の差し障りもない。
寺の大きな屋根の下に比べると明るすぎるきらいはある。しかし、それだって集中力次第でどうにでもなるはずなのだ。
気になるのだとすれば集中できていないだけのこと。自分が未熟なだけなのだ。
でも、坐っている間中、次から次へと雑念が湧いてきて我ながら呆れるほどだった。
この雑念は円覚寺で坐る時にも現れるから、特段珍しいことでもなくて、ただただわが身が未熟でなかなか集中しきれないためだが、それにしたって、ちょっと環境を変えて坐っているということだけで、さらにその度を強めるのだから凡人というのは正直なものである。
まぁそれもこれもこの環境に慣れてくれば自ずと変わっていくだろう。
時々家でも坐るようにしたいと思う。
左膝は4月中旬辺りから違和感を感じるようになった。
歩くことは何でもない。自転車を漕いでも違和感はない。したがって日常的には特段の支障はないのだ。
ただ正座が出来ない。膝を深く曲げると、とても痛む。
だが、それより手前まで曲げれば済む坐禅は何とかダイジョウブ。
この程度でホッとしている。
原因に心当たりはない。
右膝はサッカーをやっていた高校時代の古傷が痛むことはあったが、今はそれも感じない。
そんな中である日の朝、起きてみたら何となく左膝に違和感を感じるようになった。
と言っても、日常生活で正座以外には何ら支障がないものだから医者にも行っていない。
先月下旬、旅行に出かけた先の尾道で階段や坂道の上り下りを繰り返しながら18000歩を歩いたら、夕方になって膝が腫れていることに気付いたが、それだって別に痛くも痒くもなかったのだ。
膝の内部のどこかが炎症でも起こしたか,ケンでも伸びてしまったんだろう、というのがボクの勝手な見立てで、炎症が収まりさえすれば、あるいは伸び切ってしまったケンが徐々に元に戻ってくれれば違和感も消えるだろうと思っている。
しかし、左膝とは伏兵である。これまで兆候さえなかったのだから。
左足は軸足なのだ。
何だって軸足がぶれるとロクなことにはならないからね。
見出し写真を含めて横浜イングリッシュガーデンのアジサイ