思えば、そのウグイスの「初音」を聞きたくて、まだ寒さの底の2月に入ったばかりの頃から、わが家周辺の野山を散策しては耳をそばだてたものである。
春の兆しを探し、初音を待ちわびるのが例年の楽しみの一つと言ってもよいのだ。
今年初めてウグイスの鳴き声を聞いたのは2月25日のことだった。
大規模開発が続いた町の西部に奇跡的に残された緑地の中の、奥まった谷戸の木道を歩いている時に、つたないながらもホーホケキョを耳にしたのだ。
かつては2月の初めに聞いたこともあるから、まだかまだかと待ちわびた分、嬉しかったのを昨日のことのように覚えている。
まだその時の余韻が残っていると言ってもいいくらいなのだが、ボクは今「次の初音」を待ちわびる心に切り替わった様である。
次の、とはホトトギスの初音である。
目には青葉山時鳥初鰹
山口素堂の有名な句に詠まれたホトトギスのことである。
今日5日の子どもの日は「立夏」だが、関東南岸のわが町辺りでは立夏を過ぎてウツギの花が咲くころになると「キョキョキョキョキョッ」と甲高い声が響くのだ。
子どものころ「特許許可局」と鳴くんだと教えられ、そんな馬鹿なと思って以来、しっかりと記憶のヒダに刻み込まれているのである。
お世辞にも美声とは言いかねるが、真夜中でもお構いなしに張り上げる奇妙な鳴き声を耳にすると、「あぁ、夏が来たんだな」と実感させられるのである。
こういう鳴き声、鳴き方であるからして、古来、人々には強い印象を残したと見えて、多くの歌や俳句に詠まれてきた。
俳句の世界に大きな足跡を残した正岡子規の「子規」もホトトギスの漢字表記の一つである。
ほととぎす声待つほどは片岡の 杜(もり)のしづくに立ちや濡れまし 紫式部
詞書に「上加茂神社に詣でたところ、『ほととぎすよ早く鳴いておくれ』とよくいわれるあけぼのの一刻、隣接する片岡山の梢がいかにも面白く見えた」という意味のことが書かれているそうである。
夜明けに片岡山の雫に立ち濡れてみましょうか、と紫式部は言うのである。恋の歌なのだろうか。
浮雲の身にしありせば時鳥 しば鳴く頃はいづこに待たむ 良寛
世捨人同然に諸国を流浪した良寛は、次はいったいどんなところで鳴き声を聞くことになるのだろうと思いつつ、これまでに時鳥を聞いた土地を思い出したりしている。
良寛さんは恋歌と無縁だけれども、もう一つ二つ恋の歌を。
ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草 あやめも知らぬ恋もするかな 古今集
いかにせむ来ぬ夜あまたの時鳥 待たじと思へば村雨の空 藤原家隆
古来、ホトトギスは「恋」を連想させる鳥だったことがよく分かるのだ。
そして俳句になると、時代が下ることもあって、「恋」とは縁がなくなるようである。
谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま 杉田久女
時鳥鳴くや湖水のささ濁り 内藤丈草
ところで「夏は来ぬ」という佐々木信綱作詞の歌がある。
🎵卯の花の 匂う垣根に 時鳥 早も来鳴きて 忍音ねもらす 夏は来ぬ
という歌詞の歌である。
5番まであって、いつも口に上るのはここに掲げた1番だけだが、全体に自然あふれる豊かな里山を思わせる明るい感じの歌である。
小学生のころなど、ホトトギスがどんな鳥かも知らなかったし、ハヤモキナキテとかシノビネモラスなどと言う歌詞はどんな意味があるのかさえ分からず、でも何となく心が浮き立つような感じがしたものである。
夏を迎える浮き立つような気分は、こういう歌があってこそ引き立つと言ってもよいくらいだと思っているのだ。
ここで登場するシノビネこそ「初音」である。
日本語では初音という言葉はウグイスとホトトギスのみにしか使わないんである。
秋になって高枝のてっぺんに止まったモズが鳴いても初音とは言わない。
だからウグイスとホトトギスは特別なんである。
特別な関係だからか、ホトトギスはあろうことか、卵をウグイスの巣に生み落とし、後は知らん顔だそうである。恋にうつつを抜かしているのだとしたらとんでもないことで、ウグイスはいい迷惑だろうが、互いに「初音」の称号?を持つ身として、献身的に育てるんだそうである。
まぁ、そこは自然界には自然界の掟があるのだろうから、人間の分際でとやかく言えるものではないのだ。
で、ボクとしては春を待ち焦がれた冬の間がそうであったように、今度はホトトギスの初音を今か今かと待ち構えているんである。
蛇足だけれど、古の詠み人のような異性を恋い焦がれるような気持ちは、いったいどこに消えて行ってしまったんでしょうか…
立夏の夜明け
見上げると崖の上にフジの花とツツジが咲いていて、そこに上弦の月が浮かんでいた
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