禅の世界では有名な一節らしい。
確かに掛け軸などで「山是山水是水」などと書かれたものを見かけることがある。
意味はさまざまに解釈できるんだろうが、昨日の円覚寺の日曜座禅会で「宛陵録」という禅の教えをまとめた書を提唱した横田南嶺老師はこういった。
「坐禅をしていると無の境地になるどころか、あれやこれや次から次へと雑念が湧いて来て、いったい俺は何をやっているのか、と苦しむ人が多いだろうが、それでいいのです。何の雑念も生じなくなった時というのは死んでしまった時だけで、死んでしまえばそんなことにも気づかない」
「しかし、その雑念がどこからやってくるのか、だれがそう感じているのか、じっと座って、深く深く、静かに静かに呼吸をし、その呼吸を数えているのは誰なのか。それを見つめることが大切です」
分かったような分からないような、煙に巻かれたような気持がしないでもないが、たかだか1週間に一度、それも提唱があるのは奇数日曜日で、こまぎれなのだが、こうした話を聞き重ねていくと、ああ、なるほど、と思うような所にも知らず知らずのうちに気付くから不思議である。
一つのことを続けていると、それなりに身に着くものもあるらしい。
さらに続けていけば、また違ったことに気が付くのかもしれない。
最近は長く座っていても足はさして痛くならなくなってきたが、時々、首筋から肩にかけてのスジが痛くなって閉口することがある。
多分、姿勢が良くないところがあるか、知らないうちに余計な力が入ってしまっているかだろう。
まったく自分の身体だというのに、しかも、じっと座っているだけのことが、なかなかままにならないところがもどかしい。
雑念を真剣に見つめる段階にさえも達しきれていないのである。
昨日はいつもの大方丈ではなく、在家のための禅道場である居士林で行われた。
南側の窓際に座ったので、太陽が昇るにつれて暖かな日が当たり、ぬくぬくと雑念に雑念を重ねながらスジの痛さとも戦っていたわけで、何をかいわんやである。
この居士林の建物は柳生新陰流の道場だったものを、昭和3年に柳生氏の好意で東京の牛込から移築したものだそうである。
それまでの居士林が関東大震災で倒壊し、困っていたところに柳生氏が手を差し伸べたらしい。
寄進をした柳生徹心居士の写真が道場入口に掲げられている。
この居士林に初めて足を踏み入れたのは1966年、高校3年生の夏。ここに10日ほど寝泊まりして坐禅を体験したのが始まりで、今年はちょうど50年の節目なのである。
現役時代はまったく山門をくぐらなかったが、改めて通い始め、思えばあれから半世紀が経ったわけで、感慨なしとしない。
加えて、先日旅行した米沢然り、わが先祖のルーツ探しのまねごとをしているのだが、「牛込」にも「柳生」にも少なからずの縁があるようであり、今のところおぼろ気ではあるものの、縁のつながりの不思議さを感じることしきりなのである。
窓の外に梅の古木が並ぶ居士林に日が差し込んでいる。
柳生新陰流の剣道場だった居士林。ここのウメはまだのようである。
居士林の正面にある仏殿に咲くウメ。
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